ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
君臨するのである。さて、この時期kbける島崎氏を中心とする行方の諸勢力と、佐竹氏の除係であるが、諸本の所伝Kよれば、島崎比は先K佐竹氏とは血縁関係もあhy、天正十八年(一五九O)の小田原参陣の折は、佐竹氏路下の将の一人としてその名かみえている故、佐竹氏を通して秀吉政権下にその地位は保註された訳である。しかるK佐竹氏は水戸城、次いで的中城を討滅ぼした直後K、階下の将であった島崎氏を含めて「行方郡の仕盈」を笑施したのである。当時行万、鹿島の地は大歓氏の一肢が各地方K領主化して、いわゆる「南方三十三館」と呼ばれていた。ζの叡{子は形容ではあるが、新偏常陸国誌には回目、割j(鹿島行方)出族成田相賀ヲ除クノ外悉皆大歓氏の鉄所謂常陸平氏ナリ、歴世各其地ニ拠リ支庶蕃延白ラ門閥ヲ以テ誇張シ下河辺島並等諸象ト共ニ南方三十三館ト称シ佐竹氏ニ属シ其駆使ニ従フト難モ意-一之ヲ甘ンセス各自立ノ志ヲ抱ケリ」ぎた「是ヨリサキ東義久(佐竹家邑)三戚-一因テ三十三館ノ命ヲ奉セザルコトヲ讃シ乃特ニ教事ヲ脇ヒ、其威勢ヲ以テ之ヲ鋲正センコトヲ誇フ、秀吉因テ古官ヲ義宣一(佐竹)一下シ志ニ随テ諸象ヲ督責スル事ヲ許ス、是ヲ以テ義宣意ニ尽ク之ヲ亡スコトヲ待タリ」と記叫航されている。従って行方、鹿島の諸領主の多くは、いずれも秀吉の小田原参陣の令K従わず、その地位を保証されなかったため、島崎氏まで含めて諸本の伝える様K、佐竹義宣が畳民政権を背景とし、ζれらの諸氏を根拠地太田K招いて一挙Kζれを討滅したものである。ζの佐竹氏の尉郡討滅K闘するものとしては、水戸市史記載の和光院過去帳K「天正十九季牌一一月九日、於佐竹大田ニ生官官ノ衆」として「鹿島殿刊カミ、嶋崎氏校、中居殿、釜回殿服、ァウカ段、小高殿刊、手賀殿航、武田一般己上十六人」とあb、とhk郷土の支配者嶋崎氏も佐竹氏のため込Kその四OO年の歴史の幕を閉じ、当時の面影を今尚嶋崎城跡Kとい〉めるものである。尚嶋崎氏誠之後の嫁土は佐竹氏の領国K編入され、佐竹氏の奉行人として小員数久(大蔵)が、臨嵐長元年(一五九六)嶋崎城の東南掘之内(牛掘町)K城を構築し、旧嶋崎領を支配したが、同七年こ六O一一)佐竹氏の秋田移封と共K城は廃されている。尚との嶋崎氏滅亡の後は被征版者の反乱防止策からであろうが、嶋崎、、氷山の地の一部は出嶋崎氏の退色K与えられたが、その他は佐-12-竹氏の歳入地K納入され、それを支配した小貰頼久、(嶋崎盛衰記K小出貝大蔵は嶋崎氏家住となっている)は「佐竹氏の有力走旗本家邑団の一人で、行方以外にも久怒、那珂、茨城の各都K多〈の領地を支配してbb、佐竹氏の支配万式が領国外縁の新領地をすべて大身の佐竹一門と外孫家邑にまかせ、水戸城を中心とする地域K旗本家民団を配置した」(水戸市史上巻)といわれるととから考えて、掘之内城K在城したのは小田貝氏の代官ではなかったろうか。又嶋崎氏滅亡の折、城主嶋崎安定(義幹)の奥方、な皇の万は鹿島K逃れようとしたが、追手のためK深傷を負い潮来で自殺し果てた。との土地名を今でも「hv皇」というのはその故であると伝えられ、吏K地方の名家嶋崎氏滅亡によb、嶋崎氏の家昆団が嶋崎を中心として上戸、永山、城之内、石神、矢幡、大生、水原、潮来、辻、処