ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
しての共通性も多い。州問えは水戸領の村々では紅葉村(鉾田町)K監れた郡奉行の支配下K、麻生鎖の村々では琳生陣屋の支配下K、それぞれ村万三役と称せられた名主(水戸港では寛永年間よb庄屋と改称)、組頭、『臼姓代という村役人が村政の中心となhy、その下K五人組制肢が組織され厳しい身分制度の秩序を保ち左がら、支配者たる武士階級の経済担当者として種々の統伽を受けたものである。当時農民の最大の負担であった年買にしても時代Kよb差はあるが両落ともに平均するとほ・1四公六民、その他小物成、国役、高掛物など名称K紺呉はあっても、それらを加えると、滋の規模Kか』わらず税率は紛五割二三分位であhy、農民の生活様式も変hyはない。しかしζの中で糊釆村は他の農村と集なb、港町としζの性格を有し交通商業の若し〈発達していたととは特筆すべきζとである。江戸時代khuいては城下町以外は、公Kは村と称していた故、名称は糊米村ではあったが、一丁目二丁目の名が示す様K実質的には在郷町である。ζの在郷町の行政組紘は城下町と大体同様で、水戸港では家絡のよい有力者が年寄となb、ζの下K組頭がなかれ庄屋は年答の中から選はれている。潮来の場合も同じで、年寄Kは窪谷、関戸、宮本、石田の四姓から選ばれた「八人一頭」といわれた有力者がる〔Jた。(水戸落の献金名簿Kもその名がある)との八人の有力者の子孫がそれぞれ一丁目よb八丁目の村政を支配し、村全体K関係するものは八人の協議Kよって決定したといわれる。(古老談)ζの様K潮来が村政khuhて特殊な寄在であったというととは、江戸時代から港町として繁栄し、村自体が周囲の農村とは明確に区別される機能を有していたためである。刷、交通前記のようK潮来が下総の佐原と並んで、ζの地方の水道の中心であったのは、当時の水上の交通路が蝦夷地(北海道)や奥州各地からの船が江戸K物資を輸送するため、陵地沿いK南下し、銚子川口から利根川をさかのぼって糊釆K出るものと、又別道として那珂湊から酒沼川を通って海老沢K着き、そζから陸送して下士ロ影へ、下士ロ影から小舟K積んで巴川を下hy北浦K出て、ζ』で高激品川K績かえて糊来K出るものがあったが、いずれにせよ潮来経由で佐原、関宿へとさかのばり、関宿からは江戸川K入hy、南下して松戸、市川日本橋万面の河岸K荷上げしたものである。日本土也主土日~'水陸の交1虫、~-14-行徳を経て吏K中州を横切って隅田川K出て、本所、深川、浅草、従って糊来は重要な中継港であったから、河岸Kは仙台滋や南部溶などの蔵屋敷が建てられ、水夫旅答の往来もはげし〈、その為K遊廓なども繁栄し、との地万随一の尚業交通の中心地K発展したものである。現在仙台河岸や南部河岸の地名が残されているととや、町並が前川沿いK細長〈形成されているζとからも、当時の繁栄を忍ぶととができよう。この港町としての繁栄はまたとの地方K多〈富家をも成立させている。水戸御用金制度のはじまbである元禄十三年(一七OO)の献金者の中で、第一位を占めるのが糊釆の平衛門、第二位が庄兵衛、第四位が助衛門、第五位が山三郎と水戸総全体の上位を糊釆で独占しているだけでな〈、ζの時の総献金高の三劃三分を糊釆村住人の