ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

そしてそれがまた、郷土の文化κ大きな影響を及ぼしたととは、容易K想像できるが、例えば途地和歌山の著名左医師であhy俳人でもあった肇岡青州の門人帖の中κ、潮来村額賀玄春、下津尚亭、水野尚甫、梅田譲安、築地村田崎玄考等の名か記8れているととなどは、郷土kbける文化興隆の一端を一不すものである。また教育面においては、武門から医師と左り庶民詩人となった先の白地中亭松江が、「自準a亭」と称する私丞を開設して、潮来村民の子弟教育K飴〈ととを知らず尽した為、村民の傑〈畏敬するところで(本間脳雄若水溶本間家の人々) 更K文化年聞に地元の有志小峰京蔵、高田長蔵、内藤伴蔵らが水戸港の郡奉行小宮山風あったζ と、軒(治郎衛門)とはかつて設立された娃方聖堂学校(後K延万郷校と改称}が、ζ の地方K訟ける庶民教育の発詳となったこと、及びとの学校の指導者金沢浪士の沢田平格、並びK秀いでた学識のため務の招きを受けて同校に定期的K訪れ教育にたずさわった下総(津の宮) の学者久保木幡竜・更Kは郡郷考、常陸志料の著者としても知られ私塾「恥不若」を聞いた糊釆の学者宮本茶村〈尚一郎)等の逸材が、郷土の子弟教育K尽力した影響は絶大で、その結果はその門下4 hy殺多の俊才を輩出させ、郷土文化の向上発展K果した役割は特記すべき事碩である。同、幕末の郷土幕末の激動期K、郷土に大きな影響を及ぼしたものは水戸港の党争所謂天狗派(尊撰激派)と諸生派(弘道館諸生) の争乱であった。安政三年( 一八五六)落の政策の一壌として、天王台下K設立された糊来郷校(糊来館)、文久四年(元治元年) K幕府の海防策の一環として、武田耕雲斉Kよって弁財天K築造された潮来陣屋が、林五郎三郎等の率いる尊嬢激派の拠点となった為、元治元年(一八六凶)天狗派鋲圧の命を受けた麻生選兵、佐倉溶兵等の飽火をあびて灰燈ときし、近隣の民家もその戦災を受けて焼失したばかbでな〈、との争乱K身を投じて戦った郷土出身者も少左〈なかった。ちなみに水戸港尊媛運動の村落出身犠牲者〈県史研究十三号高木俊輔氏)をみる久一元治元年( 一八六四)の筑波山挙兵に関係したもので、明治元年(一八六八)までに死んだ者時制米村主岡宮市兵制以下の由民四六名、辻村で立鼠市兵(小山守)以下八名、延万村で訳出弘文究開閉す)円以下六名、大洲村で高田甚兵衛一名で合計六三名の名が記録される。ζ のほかK隣村上戸村(牛堀町)で五名という多〈の犠牲者を出してい.るととは、との争乱の郷土に及ぼした影響の大なるととを物語ると共K、それが延方、糊釆郷校の-17-↑仔在と密接な関連のあったとと、即ち幕末期kbける水戸港郷放と、地域住民の結びつき、更には郷校教審判の果した役動の一端を如笑K示すものでるる。九、明治期の行政改革将軍慶喜の大政奉還Kよb江戸幕府は滅亡し、鎌倉以来七00年間の武家政治は終・9をつげ、ζ 』K日本の歴史は大き〈転換してい〈。以下行政上の変革のみKついて記するならば、まず、明治二年八六九) の版籍奉還によb、新政府のもとK新し〈任命された水戸(潮来、辻、延方、築地)麻生(大賞、大生、釜谷、氷原) 両知藩