ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

事の行政下に入ったが、中央集権体側の強化のため、同四年五一) 廃藩監県が断行され、従来の藩はすべて議となった為、郷土は水戸県、麻生県の名称で呼ばれるようになった。しかし県数が多〈統一に問題があb、同年十一月再び全国は三附七二県K統合され、とLK旧水戸港関係は茨城県K、麻生法関係は新治帽mk再編され、行政上kbいても同五年(一八五一一)、旧来の名主(庄屋)年寄、組問制等の名前を廃止し、新らしく全国的K一防長、戸長、副戸長と改められたが、その笑質は封建時代の村役人が任命され、引続き村政を担当した。出火K向八年( 一八七五) 五月茨城県令中山信安の時、新治同市が茨城県K統合されるに至って、ほV茨城県の基縫は碓立するが、郷土は茨城県土浦支庁管下に入b、同十一年(一七八八)郡潮来の古一まぼろしの出石器融来K何両年訓から人聞が住みついたのであろうか。叡千前の人達はどの様な生活をしていたのであろうか?:::郷土糊釆の先祖K対しては、誰しも深い興味を持っているとと〉忠ひます。而しとの染向を解明するζ とは左かなか容易なζ とではあ-Pまセん。考古学者は日本人の起原ゃ、古代人の生活様式の採究について位、真敏な努力を続けて居・ります。ζ の人達の研究を奉縫として、糊来kbhて、既K発掘されている、土器石器等を研究し、(一八代広町村編成法K4h行方郡役所が設置され、(大正十五年廃止)叡村毎K一名の聯合戸長が監かれるようKなった。更に同一二年(一八八八)町村制の公布によって、延方村だけは引続いてそのま〉村を形成したが、糊釆村と大洲村は、同二二年(一八八九) K合併して潮来町とも仏hy、謹二三年〈一八九O) 三月には辻村築地村が合併して村名を津知村と改め、同年四月K大賀、釜谷、大生、水原の四ケ村が合併して大生原村が誕生した。又、戸長、副戸長の称も廃止3れて、新らたK町村長の称が用いられるようにをb、出和の新町村合併前の姿K在ったととは町村発達史上劃期的念ζ とであった。未完(明治百年の糊来のあゆみは次号)(筆者は糊来高等学校教諭)-18-窪谷章尚地下に蹴る先住人の逃跡ゃ、使用注れた器具等を発秘考究するととKよって、或る程度迄の古代糊来の様相を知るととは出来ます。現在迄K潮来K沿いて最も古い古代人の遺跡としては、私の知る範囲K沿いては、一九六八年K早稲田大学の考古学教室の人達Kよって発掘された狭間貝塚でるbます。その時に縄文前期の遺物が発節されたととを、読売新聞に報道されました。縄文前期と申しますと、今より約五千年乃至六千年前の頃です。その時点kbいて、糊来の歴史は、六千年前迄、さかのぼるζ とが出来たわけです。