ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

二百年位の聞に九州から宮城県迄作られる様Kなbました。ζ れらの事業から潮来地方も弥生中期(約二千年前)には稲作栽培が行はれていた可能性はあbます、而し銭念左ζ とK遺跡は発見されて胎bません。茨城の歴史と云ふ本Kζ の時代の焼米のはいった土器が糊来町で発見されたζ とは善かれて居bますが、時代医分は蓄hてあbません。稲作栽培がはじまると住居は高台から低地K移動しました事は全国的にた〈さん仇があります。唐古進跡、登呂迭跡等は有名であbます。糊来地方のとの時代を考える場合K海退現象を研べる必裂があbます。前K述べました縄文bT期の海進現象も、との時代Kは地毅変動Kよる隆起のためか、海水は長年月を経て退いて参りまし屯入江と在っていた山合の谷偽は低湿地K変化し、稲を作るのに好条件となったのでは念いかと考えられます。色し霞ヶ浦ゃ、浪逆浦や北浦は海でした。との時人々の住宅は台地から低地へも移動したのでは念いでしようか。現在の谷津田で弥生時代から水田であったと考えられる場所もあbますが、追跡の発見となると一米乃至ニ米の掘さ〈は必要としますので大変です。との様左条件から行方都全域K亘つでも弥生時代の治跡は叡少ない現状です。縄文追跡とは較ぷべ〈もあbません。米食が多〈左ったためとの時代Kは員緑色弘ども少左〈左つたので、遺跡発見は一史K困難を加へたとも考えられます。弥生時代の金属器具の政釆も必、泊目すべきものがあふyます。との時代は大陸との交通も行はれました。前漢書(弥生前期)Kも後漢書にも、日本のζ とがC〈僅かですが記+敵されてあ〈弥生中期)bます。有名な黛団法の金印は紀元五十三年、後漢の光武帝が倭の,奴国王K贈られた物であbます。倭とは日本のζ とです。当時白本は叡多〈の国々にわかれて屈bました。二国誌の中の鈍誌の東夷伝倭人の条(説誌倭人伝) Kは約二千字にわたb、当時の日本の社会状況や、習慣風俗などが述べてあb、都馬台国のととも蓄hてあbます。大陸との交通が頻繁K在るにつれ、いろいろの物資が日本κ輸入されました。特K 「銅鏡、剣」等は石器のみ俊用していた人々Kとつてはすばらしい宝物と映じたζ とでせう。弥生中期頃Kはとの文明の利器を日本でも製作をはじめた様です。円一ιη4との時代Kつ〈られた銅鐸は日本独特の物です。生詮用具や武線であった石器が、金属器具K変ったのも、ζ の頃であbます。生産用具が発達すれば、生産は増大し、人間生活は豊かになるのは、経済の原則ですが、日本のあけばのは大陸K泣い九州からだんだん東進して釆ました。剣、銅鏡、銅鐸等は九州から関西方面κかけて、多叡出土して居bますが、文化の波K遅れた関東地方からは、弥生時代の金属器具の出土品は少〈、潮来からは一点も発見されてむらない様です。弥生時代を要約しますと、大陸よ-Pの稲作農業ゃ、金属器具の移入によって文化は飛縫し、人々の生活は豊かになb、人口増加なとも考えられ、社会生活も向上した。ζ れらのととが基盤と在って、次の古墳時代Kは、大和朝廷の国家が誕生するわけです。