ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
常陸の風土記は常陸の国司が解として奉ったので、常陸風土記が速やかK他の固とのそれら等に先んじて出来たかと言うと、当時有力走有能な役人が居ったと想像されますU 明治二十六年菅政反氏の常陸風土記の考証によると、菅原字合が共頃の常陵の国司で{子合郷は名だたる文人であったから風土記の文もその手にか、沿って潤色されたであらうと想像されています。{子合は養老年間Kは常陸の大守K念った人です。佐々木信綱博士は「和歌史の研究」にて万葉の歌人高橋虫麿が高葉集の筑波のせん歎其の他を歌って居るので恐ら〈常陸風土記の撰進K闘係があったろうと申しています。久松潜一氏も同僚K 認めている。常陸風土記が他に魁けて出来たことは風土記の中でも優れた美文である点かといはれています。古い写本が前田家げいあ-P、延宝年聞に水戸から浄写され、天保年間K西野宣明が校訂し、栗田寛博士が標註を加へて集成増補の上出版したので更K世K行はれたものである。風土記の研究と申すと大体歴史地理的念研究が多いのですが今後は一ム般生活の歴史の上から見てゆく乙とが重要で、文化史、精神虫の立場からの研究が必要とされています。しかし研究の一端として潮来の語源Kついて風土記を引用した尚次大・第生・でのあ村Dます。(小牧の鉾神社)海辺K、香島の神子の社がある。かしわにれ土地肥沃ならず、楳、枠、検等が僅かに生えている。とれよD 乙の辺は南は相鹿、大生の星である。古老の物語りによると、日本武尊おほがかしわでが、相鹿の丘の前の宮K住まわれた時、膳部調進所を海岸Kしあつらえて小舟を編んで舟橋を作って尊の御在所の通路とした、そζで大炊の意味をとって大生の村と名づけた。あふ,かむら安布賀のロ巴叉倭武天皇(日本武尊)の妃の大橘比売命が大和から下られてみことおうがζの表K来られ、尊K御会いに左った。そζで安布賀の邑と謂うのである。ほ大橋比買は尊の妃弟橘緩の姉若であらう。書記に「穂積氏忍山宿称之女也」とある。姉、妹で皇妃と走られたのである。安布賀l和名抄では逢鹿郷とあるo大生の北で、宇崎、白浜等-28-Kあたるとの事でるる。叉、新治洲から南二塁程の所K板来(潮来)の村があるo近〈海辺K臨んでいる所で駅家をおいてある。ζれを板来の駅とおみおほ者、みいう、その西K榎の林があるo天武天皇の御世K、麻績の王を流諦してζ』K住居ぜしめられた。板来の海K監を焼〈、藻のうばかいながにし中には梅松、白貝、辛螺、蛤等が深山K産するo行方の馬「天武天皇の世、行方郡大生の里の建部実許呂の命、乙の野のみかどなめかた馬を得て、朝廷に献れhy、謂はゆる行方の馬として名高いのであるo或るもの、茨城の星の馬と云ふはあやまれhy」と、以上潮来K闘せるものを抄記した次第である。(筆者は本名直潔・郷土史研究家)