ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
叉、天皇、国造K依って契機と左った地名は、殆んど国H郡の名称K限られてゐるのも国・郡を説明する場合K権威の布及と国造の開拓統治の功績K関して相当注意を払った結果と考へられ、従って風土記の編纂がよ〈朝命を拝して国片・郡家の手Kよって編算されたζ とが肯かれる。」と風土記編纂当時の中央政権の地方浸透を物語るものであると述べ、さらK氏は「地名説話との関係を引き離して別々に考察する念らば、一体地名だけが既に在ってそれよ・9説話が起ったものか、或ひは叉説話が先K存在してゐて、それから付会されて地名が起ったものか、ζ の二つの関係の考察を忘れては走らなぃ。」とも警告している。江戸時代の国学者賞茂真淵(一六九七l一七六九)は、「冠辞考」で潮来は朝来の靴hJで、朝の訓「アシ」の反は「イ」であるからイタコと仮D読んだのだと説いているが、古来から潮来の文字があったのではないので、乙の点K誤謬が認められる。また「地名学」の学問体系樹立のため長年苦労され、先年若〈して他界された鏡味完二氏は、角川新書「日本の地名」(付・日本地名小辞典)で「イタコ亙女、占女〔潮来・忍子沼・神子〕」と記して、下北半島の恐山のイタコにその起源を求めているのであるが乙れは当地の「もりと」K相当するものでは念いだろうかo氏は現在の地名の比較研究という点ではすぐれているが、古〈「伊多久」とよんでいたので、地名の変遷Kついて看過しており、氏のいう「いたずらに珍談臆説K終る」の域を脱してい念いように思われる嵯峨天皇紀の「む仁六年(八一五)二月廃二常陸国板来等之駅一」貞治五年(一三六六) の海失注文の「連二書信方・潮来津一」、まの「坂来郷」(坂は板の誤hyと思われた倭名類Bm抄(通称和名抄)る)左ど、伊多久、板来あるいは板久、板古、伊多古と書かれており、イタコという立日K対して「潮来」という漢字が固有名詞として画定したのは近世のことであるととがわかる。回小学館「日本百科大事典」の「潮来」のところで、岡田喜秋氏r, 、、は「江戸開械の年( 一六O六)には『伊多古』と左り」と書いている。ζ の点については、よ〈「鹿島誌」の「もと板来と書きたるを、西山公(徳川光幽一六二八l 一七OO) 鹿島K潮宮(イタノミヤ)あhJて、常陸の方言に潮をイタといふは輿ある事とおぼしてか〈書き改めたbo」という〈だPが引用されている口光出公は妾腹の娘-31-を勢力扶値のうえから佐原の伊能家に嫁がせているといわれ、そのためよ〈潮来、鹿島K遊んでいる。(元県議故須田誠太郎翁談)東条操編東京堂版の「全国方言辞典」K「いた」の二義として「潮の方一言、常陸(常陸方一言)」とあり、同「分類方言辞典」の「しお(潮)」の項K「いた(古言)」とある。しかし、ζ れKはいた即潮、潮即いたの出典が示されてい念いという難点があり、現在、潮を「いた」といっていないことから推して「いた」は古言であるとしでも、同一典拠、すなわち、鹿島誌に拠っているのでは念いかという疑問が残る。しかし、いずれにしても「冠辞考」や鏡味氏の「いたと(忍女)」説は文献的考察が欠如しているのでは念いだろうか。