ブックタイトルふるさと潮来 第一輯
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ふるさと潮来 第一輯
た。其後、小生当時議会の末席を汚しておった関係上、機会を見て村議会に提案、早速議会K於て、遺蹟調査会を結成当時、村長、森止回治氏を会長として発足し、小生現地一任されて昭和二十七年八月禾国大の考古学の大場磐雄博士に、依頼、早速承諾下されて同年九月初旬に一度下調査K来て下さった、同博士先生と外K助手の方二名計三名で小生一同を案内して二日位かかったと恩ふ。取敢ず下調査の結梨、一円の古場群をひと先ず名称を大生原古執群の内西士口敏群と、東古抜群とに分けて、西古城群内の子子前線(まどまい塚)を発掘調査する事Kして、先ず地主の交渉に快認を得たので、ほっとした。先生方は一と先ず帰校され、同年十二月発掘調査と左り、同十四日より調査を初めた先生方外学生の方十余名、第一回の調査で大学、教授、削手学生、合せて大略三百七十二人、地元労力奉仕者大生部浴民、青年団員、地元中学生三十人位、潮五百三十五人、来、麻生、鹿島各高校生徒三百人位、外に地主、特志の方ゃ、他校の先生等で、第一回の調査では出土日聞は埴輪多数、及び、祭壇の跡供物銅器が発見、外K焚火の跡、数ケ所るp、主体部は、発見されず、後円部を米字形K、トレンチを入れ、一部周衛の掘の跡等を、調べて、第一回目の調査は、一時中止としたので、ある。小生出動日数連続八十四日と記憶する。第二回目は、大学の都合で三、四月頃だと出品ぅ。約一週間位で、叉一時中止、其後学校側の休みの都合Kて、其度毎rh、二、三回発掘調査をしたが、主体部発見出来ず、主体部が無いものと、半ば、呆めたので、第三回かの調査で、東古墳群中最大の稲荷塚、柄鏡形前方後円墳で大体先生方の話では、子子前塚4・P、約二百年位古いと申された。先生方に再度依頼手続きをは例まぜて、第二の発掘を初めた。先ず後円部K「卜レンチ」米字形に入れたのであるが、乙れ叉主体部見当らず、埴輪無し出土口聞なし、只後円部の更K後の方から、一尺径位の瓶一づか出土した。さて、との頃に左つては、労力者は会員の村一一議連と、地元青年団と部落協力者(二、三名)少在〈在ったのであるo先生の指示Kより、二隊に別れて一部は稲荷塚、一部は子子前娠、最終調査と在った処其除子子前塚の一隊が主体部発見、先生方の予想と違ふ位催の為と判ったのである。さて、時は昭和二十九年七月二十五日、午前十一時頃、石棺発見、内部Kは人体二館、直刀九振、碧玉製管王数個、銀・銅環、水昌切小玉、硝子製小王外十三点を蔵し、古墳周円K植-38-輪参百余と推定ぜられ、今よP一千五六百年前、古績時代、武借間命一族の築造せられしものと、推定されたのである。さて、稲荷山古墳発御は、前条KよD、叉町村合併等の為、中止と左D、其出回放置されてい-ゐo出来れば再調査か復元かどちらか、なすべきと願う次第である。以上大生原古域群の一部調査の実況を申上げると共K、一応同古場群が現在では図面K紹介される様Kなりし事を微力ながら嬉ぶ次第であります。尚近〈中K各先生方K依って報告書発刊される事と存じます。(発掘当時よD叡年経過しておPますので、多少の違った所もあるかと存じますので其点御諒解下さい)(筆者は、県文化財保設指導委員大生原史蹟研究家)