ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
ζのうち潮来町は日本水叫仰の中心地として、組光的安一一系を強く有するが、他の三付は純農付で、文化経済面で同一社会出をなし、人憎風俗、も鋪似して鋭い闘係を宥するため、合併して財政力を充実し住民の福祉をはかろうと合併謹勤が起された。合併の謹一は附和二九年凶月κ、潮来、樟知、延方、大生原、八代の一町凶ク村、つまり当時の潮来副会の町村長、助役、議長一肱婦主任会議を闘いて閣始された。以来日皮々慎重な番その崎地域住民の感家、与論の統一が議が枕けられ、はかられていった。当時の谷町村の志向は、大生原村潮来町、がとの合併援に全曲的に一質成し、異議なく可決されたが、延方付は大村でぽ々の呉論も多く、の二ク村合併、制米副会単位の合併、分かれ、できなかった。津知村、起方と大生原合併反対などにがtそのため村内各層から合岨々慌討した結果、合併が適当であそれK必ずく与論調盃の集計が、併調査員を選び、るとの柑舗を伴、成八Oパーセント以上となったので合併が決定された。同はじめ合併を予定されていた八代村は、隣接の杏燈村をも合併の条件としていたため、との合併渠に折合わず制米叫会の合併から雌れて、杏従村と共に牛堀町を構成する道を選んだ。かくて八代村をA叩いた一町三ケ付の合併策は順調K唱利三O年進行し、九五五)二月一耕潮来町の誕生となったのである。定の理由は、日を制してまたとの新町名選古川山隆史と全凶的に名の知られている「潮来」とするζとで一致しているUの位置は、史K耕町の佼川場新築するまでの械刷は当時の糊米町伎場K決定された。新町政は潮来町長であった塚本勝利氏を町長職務執行者κ選んで運営されたが、同年三月合併後初めての町村選挙が実施され、その結果藤岡鉱二郎氏が新潮来町の初代町長に就任して発足した。向合併時の課題とされた新庁舎は、発展を続ける潮来町四そ三象年徴五-1 \:l-その後辻地区に決定され、月陀鉄筋三階建が完成ししている。のびゆく側土質新潮来町の誕生後とLにこの短掛川KM州土の産唯一式維持はめざましい発投と変貌を減けている。一五年、まず次表の虚長別就采人口(附利回O年凶調)から員林水雄,菜を合わせて五三、売業が一五、凶パーセント、ilmは凶パーセント、川荷造美が九、九パlセントとなるが、とれを豆半一削と比収(附利三五年凶調)すると、農林水産菜が八、一一パーセントと大きく減少