ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
住む阿の普譜、修理、或は、警備、年買の運搬、領内の土木工事や池講の整備、すべて人手の必要な時には無条件で駆タ出される仕〈みになっていた。当時をこの地方の情勢から想像するに、農民生活は忍苦そのものでるったろうし、半農半漁の村落のための生活の出痛が推定されるのである0(註ζのとろの一戸当Dの家族奴は平均二十五、六人の大家族であョた) わずかK麻生氏の一族の居ただ行方地方を見るK、館を中心とする武族屋敷が並び、それK伴う両工家が今の?麻生町附近Kあって、月に数固にわたる縁日には物々交現市が闘かれて、近在よ-D集まる農民衆の市が一版いを見ぜる程度と思考ぜらる。わが潮来町khuいてつじは辻と云う地名よタ洞察すれば今の辻地区が若干の市街地をなしていたのではないかと思われる。それは古るく「常陸風土記」から考察して、今の大州附近が干潟地帯であ夕、春の自には行方、鹿島の人いうhぎおうく芝、さ人が南の海の州に出て、蛤、白貝、海草の員物を拾うて賑やかなりと見える。そして石間国府庁と、鹿島路を結ぶ拠点K当たる側新時(板久)は奈良朝時代の街道宿場の名残として出ぐち口の遺名から惟裂して今の四丁目あたりまで街道筋Kは尚工家が並んでいたかと想像される。戦乱に戦乱相次ぐ平安時代以後の常総地方の農民の生活は疲弊し、民心は不安K動揺していたζとが知られる。「誠一向ヂ鍬斗文治二年f、、一八六年)一一月十二日の条vc「関東知行の国々の内mw持砕の庄々、下家司等を召して催促を加え給ふ咲の由云々・::::」ー』ょ弐ノとあるととは、いかに年貢の納入が未納の庄(都)が多く、農村疲弊の状況を物語るものである。更K興味ある一文が、建長二年(一一九一年)十一月二十八日の条K尋AP--中うふしょく「ぜぜ浮喰の士、事を双六に寄ぜ、山一半を好み、一ばくちななかんづく博笑を事と為す。中就、陸奥、常陸、下総、比の三国初ていばくち一特K此の態盛なb、自今以後に於ては囲碁の外博突に一至つては一切停止さる可き由、禁制を加え可・:・::・」陸奥田留守所兵衛尉常陸国宍戸壱岐前司下総国千葉介ト可ととの禁制令のようK、社会不安から民心が生莱を-賦いしやこう射倖K定・夕、特K下総より常陸、東北えかけて最も盛んであったζとが知られ、戦乱後の疲弊がもたらした頚廃的風潮K流れ易きととで、今日の競輪、パチンコボーリングと何ら変るものではない。きCA’RJ さて武族社会の繁栄と共にその帰趨を失なった農庶