ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
その精神生活の拠Dどころとなつのは折しも勃興した新仏教の浄土思想が庶民の心を捉えた「一念仇昨日時」阿弥院如来む御袖にすが夕、誰れでも平等無差別に極楽往生ができると言うので衆民は争ってこれK向った。実Kとの信仰は、階級差と生活苦の現実から逃避での道で②ったからである。民の心を支え、きる唯一そして農民信仰は村から村えと拡ま夕、仏堂は各地κ設けられ、人々はこれを中心K講を結び、講は村落結合の地域凶体として生活向上に寄与するところが大であった。のちの徳川時代K至っても農民と信仰心の結束が固く、当時の戸籍台帳と一玄うべき「人別帳」を見ても、先ず宗門を中心とする寺院の認証を経たるのち、村役人よb代富所に提出されているζとから、いかに信仰の紫がDが後世まで続いているととかがわかる。第十二節当代の交通路さて当時の常総地方の地形から想像しての交通路は海陸の両一間にあったζとは明らかで、船舶の発達は紀元前よタ大陸との交通があったもりで、中央大和、奈良、浪技劇との連絡は海路が王たる交通路であった。ο聖武天皇天平九年(七三七年)月「下総園、常陸国両国ょb騎兵一千人を陸奥国に遣し、山海両道を闘かしむ。」。孝謙天皇(女帝)天平宝字三年(七五九年)九月「陸奥K戦乱起る。上総、下総、常陸の兵二千、鹿島よbhっ。」ο光仁天皇宝亀七年(七七六年)五月「出羽国K賊叛乱。安房、上総、下総、常陸の兵免し、之を伐つ。同六月、上総、下総、甫陸K令し、船五十隻を造、夕、出羽国最ずに送る。」このような記録文書から見ても常総地方よb東北地方の戦乱の鎮圧Kは軍兵、軍船、物費が海路、鹿島よhy発ったようである。「常陸風土記」Kも、丸貯のにJ餌減(湖来前佐原向い)て円えととが知られ、-2 9-(利根下流)、哉即を渡る交通路が阜ゃくから闘け「万葉集」巻九K、検税使大伴郷が常陸国を巡視し、下総に渡るのを、常陸国府(石岡)の役人、高橋虫磨が、石附より潮来を経て鹿島氏至る陸路を刈野橋(神栖町軽野)まで送る別れむ献がr詰まれているζとはあまhyk有名である。くだって鎌倉期K至っては陸踏む同一が進み、関東一円には幕府直参の豪族が割拠し、イザ鎌倉MMと云う時Kは馳せ参ずる鎌倉街道が放射線む如くK鎌倉を中心として各地よb達していたようである。