ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
一方水上交通の利根水運も相当K盛んで、潮来よb石岡、高浜、土浦、津の宮、佐原、小見川、鹿島、銚子の航路も早ゃくから往来を極め、特K徳川家が江戸幕府嗣府以来。利根水運は年毎に発達し、近世、潮来の発達は海水運む影響Kよるものである。第十三節中世の郷土やがて鎌倉幕府が倒れ、かくして南北朝の対立を経て足利末崩(一五四Ol一五八O年)に至る問、所在の武豪達は、己が領有する庄、郷の私有拡大化を計b時も折、足利将軍義輝の権位地K落ちるζろよb、弱肉強食の戦乱が、あたかも一つり流行となって全国を嵐った観がるった。かくして戦乱の渦中K路き込れた農民は、軍兵の乱暴狼籍にいかK苦しめられたととか。ドレょ弓ノ行方一帯に君臨した大歓平氏は、玉造、小高、麻生島崎の四巨頭K割拠されたが、同族麻生三郎常安を攻略する昆崎左衛門尉も、やがて縁族の佐竹氏に謀殺されたb同族相争う戦乱心巷と化し、下総の千葉一族へは上総の里見勢が侵略して来た夕、江戸崎の岡野氏が利根川を渡って佐倉城を攻めるなど、常総の山野は終日戦乱K凶明け暮れていた。とのよう左群雄割拠の戦乱期も、尾張の小国織田信長の手Kよって終止符が打たれるに主った。全国を統一した信長は、最も有力な財源を地租税K求めた。また軍費徴達の基準目的として征脱した諸国K土地台帳を制作さぜ、ζれを「揮し肱し」と一一=口つbしかし信長の急死によって天下を沿った秀吉は、行政の改革を断行した。し山内・紙・偽-Eの混乱した町方制度を改め、検地事業の継承と、土地台帳の制作K大成をなしたのが秀吉である。世K之を讃えて、「太崩検地」とも云い、或は「天正の石直し」とも言われ、歴史K残る秀吉の偉莱とし一て有名である。0 1υとり「土地台帳たる天正の水帳」は、集落を単位と一して郡・村の制度にして正しい実測によって田・畑-屋敷の段別や等級を査定し、域同以法の採用と一言う始めてむ測量法であって、従来。貰高で表わされた不正確を是正し、出高としたもので、隠し田や申告に船タのない缶百書が誌えられている。検地。ζとを御縄打と言い、正副二通ω検地帳の正本は代宮所K備え、副本は村役人K保存さぜ、正屋(名王)は大切に保管の責任が謀ぜられていた。秀吉の検地事莱は天正十三年よタ山城園よ-D始められたが、関東の投地は小田原の北条氏の征討後よb始