ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
(行方太郎)l宗幹(行方太郎l源平合戦K源氏K属し屋嶋K戦死」l景幹ナ)一1l棟幹(小高太郎一一ふ)一一司i一171高幹(島崎左エ門尉二郎)Ilili--Ill-一一(島崎に住す承久三年波五十三才)一了!家幹(麻生三郎)一一ll吉幹(玉造四郎)一行方氏改正屋嶋K父と共に戦号徳翁一qu一11政幹l二代二郎! 31 :1文左録エ元門年尉残太号郎1正| 山!四十九才左エ門尉平四郎母佐竹義女号太山|lili--111正応凶年残五十三才A官忠宗一5安芸守-11時幹号月山徳次元年卒一6780回始めて島崎一ll頼幹ー!l高直ーーー氏幹it満il重幹一城を築く一一、iqρ一iZ34一十い成幹卜国幹ll団長国ーほ安田ーーュ安幹11安利i({疋j一17 I安i重i左エ門尉安定儀幹昌崎城王領四万五千石天正十九年正月行年五十三才徳一丸十三才井関九石氏かくれ楢ひところ、家老大平内膳心訴えにて小賞大蔵ωためK討たれたタ註異議あり、目立市に島崎氏の子孫ありと。大体右むような家系で、宗幹は行方郡を統べて元脳M元年(一一八四)源義経K従って大津粟津で木曾義仲一を敗夕、文治元年(一一八五)Kは屋島ω戦ひに敵将能登守教経が義経を射落そっとした時矢面K立って討死した勇将であった。其長子棟幹(小高太郎)は父と共K屋嶋K戦ひ、次子高幹(島崎左エ門尉二郎)島崎K住し、三子宗幹(麻生三郎て四子成幹(玉造四郎)各其土地名をか田字とした。人呼んで行方副頭と称した。高幹を以って・晶崎氏の始祖で、名族として十七代。十代重幹、建久六年(一一九五)城の構築を許され、正治二年(一二OO)完成し愈々強大となD、天正十