ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
/\ 、年(一五九O)秀吉の小田原城攻略K参加したりは十七代儀幹の時であった。品崎氏ω領域は、島崎、上戸、永山、堀ノ内、石神矢幡、大生、水原、坂久、辻、延方の十二ケ村で、佐竹義宣は嶋崎氏む勢力をhHそれとれが攻略を念願していた。義宣は常陸統一心野望に燃えて石田三成の援助む下K常南三誘殺して常南を併呑し、島崎家に対しては太田城の数寄屋倒きK招待む名目K否み難〈出発、上小川む頃藤(保内山)で不意を製はれ其子徳一丸ともども無残Kも討ち果され、この注進を、きいて主君を討たれた届崎勢は繕城力戦したが小貫大蔵む反逆K遇って落城した。ζω折徳一丸の妹(七才)は家臣の坂隼人が武州江戸城ω本田氏。家臣K縁者があったりでそれを頼って本多佐渡守正信が引受けて養育して、長じて秀忠公の御台所K奉仕中老となhJ、某氏。二男をめとタ島崎家を継き後改めて岡田姓となD二千石を賜っ・たが、後年大納言義直郷Kついて尾張K赴きしが故るって浪人、後本田中務太輔心家臣となわJ岡田金之進は初め八百石を給されたが後本国家む知行誠心折三百石となり、其む子孫現存するとのζとである。さて晶崎城落城ω折、大生・島崎K火の手ωあがるや奥方ha皇の方は家臣K「姫の行来を見届ける様懇願し、自分の屍はどζでもよいから葬る様K」と命じて自ら懐剣でのどを突きざして自害した。それが潮来の小里の里で、小里の墓があるために其の地名となった又P里の方は久慈郡上小川村頃藤の城王小川大和守の娘である。以上は塙泉山領氏の行方郷土史、志村氏の水御風土記、島崎盛長記、其他諸事KM較するところで、従って左エ門尉の姫君と伝へらることは誤hyで、奥万と僻すべきものと単人も信じ米ったのが小里のいはれでbふ窪谷家所蔵潮来町沿革誌K拠ると次の様に記却してある。小里地の塚一浜一丁副大乗院淡昌明神地内銀杏樹の下K小里地の日塚がある。もとは長勝寺の西側、薬師及道祖神耐の処一Kあったものといはれる。小里は嶋崎左エ門尉の妻、里見氏の女である。天正十九年二月、嶋崎城が佐竹氏の為めに九め越された折小里は侍女、従者数人と逃れて此地K至夕、しばし芝生K息ひ居る内K雌が近くK迫ったので、捕はれて恥をさらさんよれyはと進K自害して果て、生き煉った者共が小里及び従者の死骸を其処なる畑地K葬って去ったものである。それ以来その辺の字を小里と呼ぶK-全ったもの。大A衆院過去帳K佐登美於里魁命、天正十九年辛卯二月十七日、嶋崎左エ門尉一安と執ぜてある。