ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
- ページ
- 45/128
このページは ふるさと潮来 第二輯 の電子ブックに掲載されている45ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ふるさと潮来 第二輯 の電子ブックに掲載されている45ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ふるさと潮来 第二輯
これは和川慨に付いていた家紋を、自家K伝わる紋章日本の皇室の王女であると宣だと説明したζとから、伝されてしまったのである。日本の家紋はいつどろよD紋章として使われるようKなったか、そして何んのために付けるようにさて、なったのであろうか:\:・。家紋の起-Dの研究について調べると、外と新しく、その歴史は穿ぜいぜい噺倉時代の中期どろからであるもっとも現在のような紋所Kなタ始と言われている。めたのが約七OO年前とろからであって、くげは公家の牛車や道具類Kは特有の図案が画かれていたが、これは一種の紋様Kすぎなかった。天皇家の十六花弁の菊花章でさえ、五OO年前の足利時代よD正式の家紋となったもので、その以前の天皇家の家紋は歴史上Kもつまびらかではない。足利時代までに判っている紋様の種類は約二五O種余りと言われ、むしろそれ以前の武族は家門の表示は色彩をもって一示すものが多〈、一拍郎氏系は白旗、平家一統は赤践と云一口ったように、旗や幕Kも色刷けで区わけその以前にしたようである。その後合戦K-全夕、って、敵と味方の見わけの必要性によ自然K凶等化した表示が一門一統の家紋として鎧、馬具等にも付られるようげいなり旗小説、田1由同、の頃ゆりさし戦国の群雄割処の時代に主つては、馬印、働、指物にも家紋が掲げられ、大いに己が武門一統を誇示する楳識として威勢を示したものである。鹿児島の晶津家は、鎌倉時代K九州K移住し、て南九州の土一象達を制圧し、ついK九州一円を支配する豪族となった。その本家は元来長い+の字型のクツワの紋章で、分家筋は少しずつ本家の紋章の形を変えて家紋とし、九州地方では十字型の紋章は一最も碓威のある家紋であった。そしのちに天草の乱以後、パアレン教徒との誤併をさげるため十の字K丸を付し、@と改め、晶津家の家紋として後の世までその権勢を示すK主った。QUこのように日本の家紋は家門の牒一不であることを原↓則として、家系、信仰、記念を凶象化して、その権威と、祖先の歴史が秘められて長〈伝承されてきたのである。あおい江戸時代K主つては、街道で三ツ業突の徳川家の紋のついた荷物に会っても道をゆずらねば罪になった。それだけ将軍徳川家の権威が天下を制正して凶たので合のおいある。そして庶民は徳川家の英の紋午阜のついた衣服を一度でも着てみたいと願うのが人情であろう。あおい忠勤を励む大名や旗本の武士に英の調度品などを与えてその功労そζで幕府は、紋の付いた衣服や万削刷、