ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
ーピスで同船し、汐来水雲橋の扶から乗船して前川を通hy、地蹴河岸にて篠塚勝七商店よhン(当時はまだ一個唾草等も凶給制で忠ふKまかせなかった)泊、ビール漁を積み込み耐川を下b、息栖神社に詣で柏屋旅館にて昼食を収夕、北利出川(今の常陸利根川)を朔上して汐来に帰還。当時としては大変蒙峯版であった。船中の状記は読者の御組問隊陀委ねるとして、本論K入るのであるが、前川の途中間ぃ鎖其の他を積込んだ地成河岸に、両県議に下船して載き堤防の上から前川を見成して頁い干耐にすべきであるζとの必要を後々説明申上げた。所が、一品橋県議は当時桝村の小高干妬(霞ヶ浦に突出した)が非常κ困難を極め当時土木だ悩みを持って居った凶係からとも沼田せられたが黙して諸らなかったω 同行の同志の中にも何人かは立蜂hM前何を夢みて居るかと哨笑するものもあった。然し宛ら二年生議員ともなられ慧眼の脹岡県議は面白い構想だ、県とも柑談して研究して見ょうとの御意見であった。力を得た払は、早速其の翌日から運蛸を展開した。先ず地元村会議員で当時議長(町村合併後も初代議長)の「立野勝司氏」議員の「久保政喜氏」「立野勝正氏」に其の仔細を伝えて諒併を取付けた。其の後一延万村の執行部(当時村長山野三保之朗)の取タ上げる所となタ村ぐるみで県と国KMm情が繰返えされるとととなった。道的も度重なるにつれ熱気も帯び干佑気運が高まって来たので昭和二十七年に、次城県に於て初めて地区干耐の調査が閥始された。県笛Kするか、町の代行干拓げ比するかについてもかなDの研究がなされ念がら、昭和三十年K町村合併促進法に則D、大生原村、延方村、辻村、汐来町の一町三ケ村の合肝が凶立し合併新汐来町が誕生した。初代町長に勝岡鉱二郎氏が選任され漸定処置として地区住民出情等も考.同思して各出村地区役域跡K支所が置かれ支所長の下数人の職員が配置されて行政の執行K当つトた。然し宛らその後一年位にして財政上のととなどもベあって支所は垢止されその建物は公民館分館の拠タ所として今に至って居るω合併当初の町長となられた勝附さんは、それ迄に県会議員として此の干拓問地に収組まれて屈られた出係から、新汐来町になってからの促進逗劫をするにしても大変好都合にて陳情運叫も川県駄なく順調K逼ばれその効果も一段と高められたω県の調査も進み陥和三十一年十二月頃に結果が脳夕、昭和三十二年度着手代行延方干届計幽等が崖林省K提出された。たまたま昭和三十二年度よタ干拓制度の改正が行は