ブックタイトルふるさと潮来 第二輯
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ふるさと潮来 第二輯
貝塚学ぶ五月晴の素晴しい天気だ。しばらく振タの休日なので、今日ζそかねてからの懸案である扶向貝塚を研べてみようと家を出た。自転卓にスコyプと、移植どてを4積んで、ジヤンパlk作業ズボンの軽装である。久山間原は今年五十八才材木犀の主人である。終争当時は満州で小学校の教員をしてゐた引揚者である。当時の日本経済は混乱の極度に達し、全国民飢えとの附いにてんやわんやの状,喧であったυ学校長の窪谷章俸給五千円なDむ同米一一民八千円なD、とれでは生硝のめどもたたないので、食はんがだめκ崩れない商人となった』保一一貰から出発して、全然経験のない職業についた苦労は並大抵のζとではなかった。而し川抗争によって大打撃を受けた日本国民である。当時全国民同じ様なト条件のもとに再生へのスタートをしたので、久保涼の寸みの苦労と考へるのは自己蝉護になるだろう。人生凶顧は過ぎ去った歳月を短く出ずるωが普通であD、苦しかったζとりみ脳裏に去来する場合が多い久保原の昨今は、胤島崩発のブームKのって商売も順調に発脱してhxD、日々川県難の生泊である。百択をしなければ金に凶るとともな〈、家族一同川市柄息炎の巻しである。日本人の平均的生活であろう。ζの棟な生活を続けていて何か充実した人生とは言いきれないそれは何故であろうか。久保原の青年時代、学生の多くは「人生姐何K生〈べきか」について悩み語hJ本を読んだ。