ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
ある。内田山の正の上にそびえる白亜三階の校舎体育館、五十メートル正式競技公認プlル、陸上競技公認グランド、弓道場左ど、県下最下位にあった施設設備の潮来高校は、今や県下第一の施設設備の完備した県立高校として見学者を迎えているのである。とれも、ひとえに町内指導層の方達と教育熱心在方達のな力κよるものと考えると、潮来町に生れ住む人達の教育に対する理解と協力と努力とが、いかにすばらしいものであるかを、あらためて知らされる思いがする。。六、幼稚園戦後幼児教育の重要性がいわれて、潮来町内Kも私立の幼稚園がいくつか設立されている。が潮来キリスト教会の潮来幼稚園で、中でも古いの私立では最も充実したものといえよう。昭和四十一年〈一九六六)町立の幼稚園が延方小学校κ併設され、町立延方幼稚園として発足した。ついで翌四十二年には、大生原K同様、町立大生原幼稚園が設立され、四十三年には町立徳島幼稚園が徳島小学校内に併設された。。まとめ以上、寺小屋からはじまって、れも比較的新しい幼稚園まで、中、高と戦後そあらましを述べてみたのであるが、潮来町に於ても、小学校のはじめの頃は義務教育としての普及発達には、関係者はか左りの努力をはらわれたらしい。明治二十六、七年頃の就学児童のパーセンテージをみても、未就学児童の数が多〈、完全に義務教育を終了する者が少左かったように考えられる。大正K入ると義務教育としての認識も深まり児童の登校も活濯、教師は時の流れにのって、形式主義、教権主義の教育から児童本位の教育へうつるべく努力している。国民学校の頃K在ると、この年代に教育をうけた人達の多くは、戦争とむすびつけられて、慰問袋だの、慰問文だの、動労奉仕だのという言葉を思い出す。皇国の道を中核として、知徳心身一体の錬成をはかり、強い国民的性格を形成する教育が行われた時代であるととは皆の知るところであろう。しかし、-6一これをつのくぎり昭和二十八年八月十五日終戦。にして、日本の教育は大きく転換した。先に記した六三制の実施である。民主化の上に立った教育委員会制度も忘れては左ら左い。潮来町の教育委員会の発足、それは昭和二十七年十一月一日である。小学校六年と中学校三年が義務教育とされて、各町村κ中学校が設置されたことは前述のとbりである。