ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
十番範囲取人百拾参入南割六つ目弐拾五割、南割七つ目六割、九番壱割、十番弐拾参割、付洲弐番割壱割、十四番三割、付洲弐番割壱割、付洲弐番割壱割、十四番三割、十五番、古新洲κて弐拾九割、十二番八割、新々洲九割、付洲三、四番割弐割、外に宅地六割十一番畿三町目田取人六拾四人南割七つ目十七割、付洲弐番割十三割、十五番、古新洲にて弐割、付制壱番割拾五割、拾弐番四割、新々洲六割、外に宅地六割。附記上壱町目右は田取人の数κ応じ、各等級の土地を案分比例にて配分したものである。各町に於ては、其翌日若〈は翌々日に田取人集会の上、組総代は田取人と同数在る畿をつくり、各国取人之れを抽き、其の簸κて各自の字何処といふζとが確定し、各字の当範田取人は其小字毎K集会して小銃を施行し、弦に始めて各自永久占有すべき土地が確定し、町民多年の宿願も良果を収め、用務は其の終りを告げたのである。以昭和四拾弐年拾月拾日新桜荘二重谷開発の恩人窪谷作太郎翁小伝翁は窪谷足穂の長男で嘉永元年ご八四八)九月二十五日潮来K生れ、幼にして宮本茶村先生K師事して学徳を修め長ずるκ及んで識見卓越、明治二十四年十二月二十日、推されて潮来町長κ就任した。当時二重谷、大洲寄bは年毎K水災Kあい、三歳一回の収獲を以って満足するの止む衣き不遇の地であった。翁就任以来ζの水患を除かんと決意し、難事たる海の築堤工事を企画し、先づ二重谷組有志を勧誘説得して、資金を五十銀行κ仰ぎ、万難を排して起工し、一年有半の苦心は逐K酬へられて竣工-33-二十六年七月、を見た。涯上弦K於て始めて二重谷、大洲の地κ堤防Kよって開拓された美田四百余町歩の開発が成就したのである。向沖之洲堤防築造K当っても翁の億力K負う所が多かった。何れも組合員の功労元より浅からずと雄も、翁の献身的努力の成果Kよるものである。明治二十八年十二月十五日満期退職後台湾に渡り彼の地K於て衆望を担って部落の長を走りしが其の間当地κ於て築堤工事の費用弁済も完了し、加うるに明治三十二年県堤の指定を受け翁を追慕し町民懇請の上、翁を招いで大正