ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
翌鹿島高天原よb持参した松を記念のためζの洲の小高きところに植え、その由緒を書認めた札を建て、帰城した。ζのζとが大洲島開発の基因と左b、後年有通の第二子彦五郎が従者二人を召連れて父有通の植置さえる松を尋ねて、当制体へ引越し開発を初めたのである。以下村田氏系図念よびその他の記録Kよりこれをいま少し詳し〈書いて見ること与する。ただし、残されている記録はその原文をそのまま掲げ出来るだけ注釈を避けるようにしたいと思う。「村田(組現香取郡大栄町大字村田)ノ城主民部少輔村田兵衛有通ハ、天正三乙亥年二月三日鹿島大神ニ参詣セント思立チ門井与十郎、紫村弥十郎、同藤兵衛外二人ア召連レ、同日鹿島ニ着シ大神宮へ詣テ止宿シ、四日鹿島七不思議要石並に神井戸其他ア見物シ、高天原ナル小松ヲ根堀-一シ大切エ持参シ、五日鹿島ア出立シテ大舟津ヨリ出船愉快ニ渡行セントセシニ、量計-フンャ、浦ノ中央ニ至リシ時南風烈シク起リ浪波逆マキ船揺動将-一一種没セントスルノ危険アリシガ、幸大神ノ御神徳ト船子ノバ力を以テ、此ノ浦ノ浪逆ノ奇洲大洲ト云フ渚ニ漸ク漕ギ寄セ、船中ニテ一夜ア明カシ翌六日ニ至リタレパ、風モ静マリ朝震棚引遠近ノ眺望絶景ナリロ此ノ洲ノ高キア見立テ、高天原ヨリ持参ノ松ア植、松幾末栄エン事ア書認メタル札ア立置キタリ。夫ヨリ津ノ宮岸へ着船香取大神へ詣テ、九ツ半出立致シ夕刻村田へ帰城ス。従者五人也。」とあb、大洲島に足跡を残した最初の者は、ζの有通主従のようである。村田氏は下総国村田之城主小五郎有胤を祖とする。祖先は遠く桓武天皇の第五王子葛原親王の第二子高見王の子上総介高望よb出、平姓を賜る。高望の子良文その子忠頼その子忠常。忠常の長子上総権介常将千葉氏を称し、千葉の初代とす。二代下総権介常長、三代下総権介常兼、四代下総権介常重千葉大介と称す。五代下総介常胤千葉介と称す。千葉介常胤の第五子左衛門尉五郎胤通圏分氏を称し、矢作κ在城し以て此地方を領す。国分五郎胤通の第三子小五郎有胤は村田、伊地山、横山、桜田の祖にして村田氏を称し、村田台登城κ城を築き有胤の子彦五郎師泰、その子彦五郎朝通、六郎胤幹、七郎頼泰その子孫皆本城に住せしものκして、民部少輔兵衛有通はその喬孫である。香取郡誌)此一41ー(千葉大系図全、「天正十三乙酉年宗家千葉新介勝胤(当時佐倉ニ在城ト常陸国河内郡足高ノ城主岡見中務少輔信貞ト合=ぇ)