ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
村田兵衛有通ハ香取出張ノ千葉東軍一万余騎ノ主将東六郎鎮胤ノ下ニ次将トシテ出陣ス。大須賀川合戦ニハ村田兵衛有通ハ千五百騎ア率テ出陣シ、岡見ノ長臣栗林下総守義長ト対戦天正十四丙成年十二月九日大戸川ノホトリニテ馬上下知奮戦中弓矢ニ射ラレ落馬シタトコロア敵将金田刑部ノタメニ討タルロコノ合戦ニヨリ大須賀川、佐原、小美川敗北、村田落城ス。(常総軍記、東国戦記、利根川図志)戦アリ、「その後宗家千葉新介勝胤と岡見中務少輔信貞との間K和睦の議起b、双方人質を交わしつつがなく和睦整い双方陣を引払った口利根川図志)(常総軍記、兵衛有通法名清光院殴前少府雪巌好公大居士天正十四丙成年十二月九日卒右石碑、位牌若宮山耕田寺κあり。位牌裏κ「開基村田之城主有通」とある。室国分氏女法名浄巌院月心妙船大禅尼元亀三壬申年正月十三日去右石碑、位牌若宮山耕田寺κあb。終戦後の村田氏子孫(有通の長子与次郎、第二子彦五郎、第三子与十郎)は伊地山の城K移b長子与次郎が村田の当主として領内を治めていたが、天正十八年七月五日豊臣秀吉軍が、小田原を攻略し、北条氏が誠亡したのK伴ひ、北条氏の属将であった千葉氏念よび千葉氏の一族である村田氏も両総の諸将と共に徳川家康κ降った。その後「有通の長子与次郎は家康の属将鳥居彦衛門元忠K仕え、慶長五庚子年元忠が京都伏見の城代を命ぜられ村田与次郎も次将として士卒を率いて伏見K止まっていたが、後石田三成反逆を企て其徒七月多勢をも-42-って城を囲む口元忠、与次郎奮戦ζれ努めたが、衆寡敵せず、遂κ雑賀孫一重朝がためK討える。従う者一人も残さず戦死すDL_「有通の第三子与十郎は岩城城主鳥居左京亮忠政忠男)K仕え、知行三千石を賜る。」「有通ノ第二子彦五郎(七之允ト改メ後仁右衛門トナル)天正年中下総国村田邸ヨリ、常陸国行方郡大洲ナル父有通ノ植置キタル松ア尋ネテ、従者紫村弥十郎、同藤兵衛両人ア召連レ主従三人ニテ当洲体へ引越シ開(一冗