ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

κ造営されたのでは左いかと愚考される。左hu、鍵取の庄屋村田市兵衛定清は大洲村田氏の四代目家督者で、寛文七丁末年より父の後役を仰付られ延宝七己末年まで十二年動め夫折した二代目の庄屋である。鍵取とは、神殿の扉の鍵をあずかっている者、社の管理責任者というζ とのようである。即ち神「貞享年中厚キ思召ア以テ源義公当島へ御成被遊候節私宅へ御立寄御用密柑居邸内へ植立被仰付例年果実献上仕候。御移植ノ本数有田密柑、紀州密柑、八代密柑、肥後密柑、遠州密柑、シラハ柑子、薄皮密柑、九年母也。」みかん制「柑、行方郡大洲新田村田氏より上へ献ぜb。(茨城県史料近世地誌編常陸紀行)大洲村の誕生「大洲新田ハ従来板久郷ニ属シティタガ、元録十三庚申年ヨリ板久村ア離レ別郷被仰付。是上ノ思召也」(大洲村)「潮来」は当時「板久」と呼称されていたようである。組今の寺の建立「当村寺ハ先年家数少ク追々増加イタシタルニ付我等所有地小屋敷二十五歩ノ処へ庵寺ア出来置村方ノ者祖先又親ノ命日ナト仏参ノアテニイタシ置処也。然ルァ、定矩ノ代享保十乙己年正月板久村石田丹次方ヨリ屋敷並田畑買請手広ニイタシ、真言宗多シ、依之普門院へ及談示末寺同様諸宗入合ノ庵寺ト定メ初メテ真成院ト名付。石田丹次ヨリ買入代金村固定矩半金、村方ニテモ半金。別紙大巻物アリ。貞巌良正葬礼ニ普門院モ出張ス。長勝寺引導ス。享保十五庚成年九月住僧法印翁誉真成院-一テ死去ス」「市左衛門定矩代御除地拝領ス。二一間間FhdAU『四畑弐畝二十四歩市左衛門二二間畑弐畝二十八歩同人四間十間半三間半計畑壱畝七歩同人合畑六畝二十九歩当申ヨリ除ニ被下大洲新田百姓市左衛門先年密柑等之御樹木御預ケ之処右ノ者先祖代々御樹木大切ニ手入仕被発御預ク之本数無相違今以テ相守罷在候処給分茂無之居屋敷之内御樹