ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

たるものである。六世紀七世紀と進むにつれて、一般庶民層の聞にも高塚古墳を造る様になり、規模は小さく家族墳の形態を備える様Kなった。ζ の時代は各地K高塚墳が爆発的K築造された。六十塚とか百塚とかの地名が残っているが、それはとの時代にたくさん塚のあった場所である。古墳Kは、故人の愛用した鏡武器装身具「玉類、腕輪、首飾hJ等」を埋めてある場合が多かった。市し千数百年の現代迄の歳月の聞には腐蝕したもの、盗掘されたものも多い。古墳時代後期K左ると、日本に於ても鏡が作られる様Kなった。これK対し、支那朝鮮等から海を渡って来た物を舶載鏡と云い、日本製の鏡でも、はじめの中は支那の模様等を真似てっくり、とれを佑製鏡と云い、更K日本独自の物を和鏡と考古学者は呼んでいる。飛鳥時代から奈良時代にかけては、日本の美術工芸は長足の進歩をなした。奈良の正倉院の宝物等を見れば首肯されるととである。和鏡にも蝶細鏡、金銀平脱鏡、銀貼鍍金鏡、等素晴らしい美術品が数多くある。正倉院の南倉にある唐の鏡の中に海獣葡萄鏡が五枚あhy円鏡が四枚方鏡が一枚である。その中の円鏡の一枚は佐原市香取神宮蔵鏡と同泡であるので有名である。海獣というが、実際K表現されている模様は獅子と鳥や蜂や蝶それに葡萄がとbいれられている。昭和の大発見と云はれている明日香の高松塚古墳の壁画はあまhyKも有名であるが、との時出土した海獣葡萄鏡K注目している人は少念い。平安時代以降になると、鏡の製作技術は各地方に伝はり、庶民層の聞にも姿見として所持される様K左った。またその頃、社寺仏閣に鏡を奉饗するととも行はれた。特K修験者が、日光の男体山、出羽の羽黒山、話良の大峯山、等K奉饗した鏡で現在迄に掘出されている物は、相当の枚数であゐ。私も過日、出羽地方を旅し、羽黒山K立奇った。その時歴史博物館K陳列されていた約三百枚の鏡を見て驚異の眼をみはった一人である。中国の古鏡から和鏡左ど時代別K陳列されていた。その中の平安時代、鎌倉時代、室町時代の鏡の中に、菊花K小鳥を配置した模様の物が数枚あった。『以上で鏡の歴史を一通b調べ、小見川より出土した三角緑三神五獣鏡や、香取神宮の国宝、海獣葡萄鏡κもふれた。調べたζ とを基礎として巻頭の写真の潮来出土の古鏡を考えてみると、緑の角度が直角に立ちあがってなb、菊花の模様から和鏡K間違いない。時代の判定は、文化財の鑑別K於て日本的Kも有名左土浦の柳沢先生の号一口Kよれば、「室町時代初期の物であり菊花双雀鏡と云はれる鏡の中の一つである。」と云うζ とである。古墳から出土した点Kついては、考古学者茂木雅博氏の説明では、「古くからあった古墳の塚の上K、室町時代の頃、二次的K嗣を祭hy、奉要された鏡ではないか」とのζ とである。潮来地方台地Kは、弥生遺跡や、古墳が数多く散存している。学術的K発掘されたのば、子子塚、一基である。今後の発掘に於いて、学問的Kまた芸術的K重要な古鏡出土の可能性は十分にあると思う。潮来町文化財保護審議委員タ郷土史研究委員ク編集委員7JRJ筆者