ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

-「神釆人物芭さ荏‘と潮来の本問は俳号を松江(しようζ う)延宝年間より元誠年聞に及び、七十九才の高齢をもって没するまで、武士よb医師と左り、そして俳人として多彩念生涯をζ の潮来に全とうされ、潮来の庶民教育κ飽〈ζ と左〈子弟の教育κ僅捧された人であふ。本間道悦と称し、(どうえつ)そして潮来の教育発祥地たる潮来村民ひとひ〈畏敬するところであった。本間昭雄氏若「水藩、本間家の人びと」κよれば、本間家の祖先は遠く延暦の年間κ及び、伝えられる本間家の譜系Kは奈良本間村、(やすつぐ)「自準亭」を開設して大連(・訟なむらじ)本資問継より発し、建久元年一九O年)三郎は佐渡の守護職となった。その後育、本間六郎左衛門も文永十年)まで佐渡にあって、永正十七年二ζ ろ、本間資基の世代より近江の坂本にあって守護職を司・夕、一族分割してその任にあったという口その後元亀二年ご五七一年)年(一二七四五二O年)、織田信長の延暦寺道J悦宇野沢猿司の焼討ちによって焦土化してより本間家は家名を回復するζ と念〈四代を経過した。慶長年間本間資勝(やすかっ)は、近江の領主戸田左門に仕官し、戸田家が美濃の大垣へ移封と念夕、勝一門もこれκ随伴して大垣に移った。乙の本間資勝Kは三男一女があって、三男資道資とくに二男資ーもらー(やすみち) は文武両道κ秀れ、藩主の信任も厚かっ孝と、藩中WLhu いても将来を期待され、戸田た。寛永十四年(一六三七年)規模左る農民一授が起った。徳川家は各大名κ命じて九州討伐κ向う先陣κ戸田本間一統もこれK参戦し、九州の島原と天草κ大家も出陣すること』在って、(Dその功により二百石を加増されている。ζ の出陣に三男資道(やすみち)は一門とともに参戦を希望したが十五才の元服前のため藩主の許しが出なかった。しかるK十五才の資道は藩公の許しの左いまLK雑