ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
兵にまぎれ,\参戦し、板倉重昌の卒いる軍勢の中κあウた十五才の弥三郎資道は、群がる敵方の槍先κ左脚κ深傷を負い、九死に一生を得る結果となったのである。この戦は織烈を極め、の激戦であったという。藩公の許しも念〈参戦した少年本間資道は叱責を受けながらも武門の子としての行動を聞くκ及んで藩主戸田左門公の激賞するところと左って、その将来Kますます資道K期待がかけられた。天草の役で重傷を負った本間資道は、その後有馬の温泉で入湯を続け、資道の創演は癒着したが左脚の機能はもとのように完全に治癒しなかったのである。大将の板倉重昌も討死する程父のそして少年資道はついκ肢行寸る身となった。資勝もわが子資道の不具者κなったζ とに心を痛め、ζ のまL武門の戦列κbくζ とも不可能と悟った。そして資道も将来医師として医術の研纂に意志のあることを知って、尾張の漢方医師のもとで修業した。こうして弥三郎資道は武門を捨てL 医師となり、再び戸田藩K迎えられて藩医として任え、その名を道悦(どうえつ)と改めた。道悦は医業κ専念すゐかたわら詩書κも通じ、道悦は更に医術の研究に志し、江戸への修業κ心を燃した。やがて江戸K出た本間道悦は日本橋青物町κ居を構医業を開業するかたわら医術の奥義の研さんに専え念した。道悦は医師として名声を拍したばかりか、俳階Kも志し、のちに俳聖とうたわれた松尾芭蕉翁とも親交の仲となった。俳号を松江と称した道悦が、芭蕉との結びつきが、今もって学者聞の研究課題と左っている。松尾芭蕉は旅K生き、旅κ死んだ漂泊の詩人として広く庶民κ親しまれた人である。芭蕉は正保元年二六四四年)、伊賀(奈良県) κ生れ、少年時代は藤堂家の小性として任え、寛文六年ご六六六年)主君良忠公が亡く在るまで武士の道を歩み、巴蕉が伊賀を亡命して江戸κ出たのが寛文十二芭蕉二十九才の春である。ーも7ー年といわれ、当時、住所も一定しないまh転々として安定し左かった巴蕉も、ようやく弟子の門定の世話で深川K住むで、俳階師ように左ったのが延宝八年(一六八O年)として生活が立てられるようκなった。そのζ ろ臣蕉は慢性の胃病κ悩んでいたので、κ医師のもとを尋ねることが多かった。その当時、道悦も江戸青物町に医師を開業していた芭蕉も治療に通い、道悦を知ることh念ったもつねので、