ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

のと思われゐ。とうして道悦も芭蕉の非凡念る才能を認め、か双方の間K親密念る交遊関係が深められていったもいっしのであろう。道悦は幕府の官医に任ぜられてからも左を、儒学、漢詩、俳譜を学び、社会的欲望を捨てた旦々たる心境は巴蕉との親交以来なを一層、「自然と閑寂」への境地κ聞いていったのである。そして日本独特の誇るべき庶民文学たる俳譜の妙味K道悦が同好の士と左hy、延宝八年どろは深い交遊に結ぼれていた。本間道悦は医業で名声を挙げていた江戸より、との常陸の潮来村の片田舎の地K居を移したことも芭蕉との深い宿縁からといわねば左ら念い。本間道悦が潮来へ居を構「自準亭」と名付けた診療所を開設し、そして困る村民に無料で奉仕寸る施療をなしていた。そのころ、仙台、津軽の奥州諸藩の船舶は、米穀その他の物資を江戸K運搬するκ遠く房総半島を迂回して東京湾の品川港K至るκは多くの日程を要寸るばかりか、難所とする館山沖の風雨Kは幾多の難破船が続延宝十年(一六八二年)え出した。乙の迂回航路を避けるため鹿島灘より銚子口に入って利根川を利用することを考えたが、海上を幕府は、運航する千石船の大船では、の不可能さを知って、刺根川を江戸までの航行乙の潮来の地を大船の繋留地と定めた。そして潮来Kて川船K積み変るための諸藩の蔵屋敷ゃ、船ぐら左どが設けられ、利根川の江戸への物資運送κは主として高瀬船が刺用され、その一捜の収容力は米五百俵J九百俵ぐらいで、船頭が四人左いし六人が同乗し、冬の渇水期の高瀬船の不能の場所Kは航丁が刑用された。延宝六年以来、(はしけ)江息年戸栖平ょの均り三四下社総参O(/) 言旨fl木2のる下t乗般刺河客を根岸船越川をもゅの経延る運て宝と航潮六いは来年わしK よれだ遊り、いぶ営鹿に客業島活もが、発多許香とかさ取念つれ、り-68-た。乗客船を茶船といった。そしてζ の潮来は利根川交通の拠点として賑わい、多くの江戸の庶民や文人墨客がこの茶船を刺用して来潮したのである。そして潮来は回船業を中心κ商家が次第κ増え始め、その必要κ応じて花街が形成されて股賑をきわめ始めていた。道悦の「自準亭」もこの集散地的な潮来の発達κ伴って商家が栄えるκ従って子弟κ「読み書き、そろばを中心κ礼儀作法や日常生活κ必要左事柄が教えんL_