ブックタイトルふるさと潮来 第三輯
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ふるさと潮来 第三輯
による) 本間道悦が何故に江戸を捨てて潮来に移住したのか?ζのことについては別説もあるが、思うκ芭蕉の師ともいわれる仏頂禅師が江戸深川より常陸の鹿島κある根本寺K移り住むκ至hy、乙の禅師と、芭蕉とともκ交遊のあった道悦も、風光明美の水郷潮来は鹿島の根本寺にも近く、芭蕉が禅師への参禅する機会も多ノヤ念る関係Kあって、しかも江戸よb一日の船旅の里程κある潮来は、むしろ道悦自身が選定した地点と思われるのである。自準亭所在地考さて本間道悦の「自準亭」の考証κよって探究すれば。一、「自然と閑寂」を好む俳譜人として、丁より上一丁目地帯は遊楽街の様相を呈し、当然自準亭の所在地κは不適地たるは云うまでも左い。そのζろ東方地区の延方、辻村はそれぞれ一ク村を形成してなり、「鹿島紀行」にも”潮来自準亭” とあるので旧潮来地内を云う。案ずるκ三、四、五丁目あたりと想定せられるとして思考するロ一一、本間道悦は少年時代K島原、天草の役κて左脚κ受傷し、武士を断念する程の肢行者であり、路の歩行も困難なるζとを想像すれば、。の所在地について二、すでκ浜遠当時交通上の船便のよい地形を選定するのが常識である。三、潮来K限らず河川κ接する都市は、港(河岸)のあるととろより市街地が形成されてゆ〈ので、しかも潮来は「常陸風土記」κ誌されている如く、当時の石板来駅(いたくうまや)のあった所で、岡国府より鹿島及び下総へ至る要路として、という異名のある四丁目あたりが潮来村の中心を左していたものと思われる。出口四、従って綜合して判断するκ、「自準亭」地κついては商家κ近く、しかも江戸方面と鹿島への最も船便のよい河岸に近い場所κ本間道悦の居が構えられるとすれば、huそらく四丁目河岸附近と想定するものである。さて、潮来町長勝寺にある芭蕉(桃青)、道悦(松江)の連句碑は、昭和の初期、長谷川泰山師らの発案κよって石田得牛氏、高品開路氏らの潮来俳句会の有志κよって建立されたものであるが、石田得牛氏の調査によれば・・..松江(道悦)の「自準亭」の所在地の確証は、現在の四丁目地先Kある天王河岸前κるる「松田氏の裏方に当ゐ一角κ、昔し火災の跡らしい焦土と左った土質。。。の中より、本間家の家紋(三階菱)のついたふくべ(酒入れ用の瓢たん)が発見されたことがある・・・・・・己の所在-70ー