ブックタイトルふるさと潮来 第四輯
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ふるさと潮来 第四輯
六年(一八七三)の棟札に書かれた神社。由来Kも「大生神社は天正十七年K天災に擢hy焼失し、翌十八年K新築した」という記載があるとととも一致する。しかしながら、現存する社殿白建築材及び墨書からは天正期白もむと思われるもむは見当らない。強いてあげれば、「下総国:・・:」白文字の読みとれる古い松材ぎ隠しゅんの小屋東の一部、椎木材の土台と援宝珠住を含む勾欄の一部、組物巻斗のひのき材。部分などがあげられよ一ぅ。一次氏ζ の神社の建築で明確な年代の記載があるもりは、虹梁木端の獅子。彫刻、及び太瓶束の制形に書かれた「宝暦六年子九月」C年月と、「大工棟立根本政右衛門」の名前である。またこり墨書と同じ類型に属すると思われる記載が、他の部材Kもみられる。従つて宝暦六年(一七五六) κは、社股む解体修理、もし↑くはそれに近い大規模念修理が行なわれたζ とは間違一築ていは古しあ、いか、るもしまのといでれ。はらなのい墨か書らはこの神社全体からみて決しζ の点からも大生神社の建それより前の時代に行なわれたとみるべきである。一例をあげれば「宝暦六年:・・:」と明記された部材の剤形の中K、全く異なった字体で「東」の文字が書かれている。この文字は部材を取付けた場合に、年号白書ーかれている位置よりも内部κ位置して、風化を受ける度合が少ないむにもかかわらず、文字がうすれて、より早い時期に書かれたものであることを物語っている。ζ の事実は、制形という部材が以前から取付けられてb夕、この同一部材に宝暦む修理時に、年月、及び大工氏名が書込まれて、再使用されたと考えるべきであろう。では大生神社が宝暦以前K建築されたとすればいつ頃に左るむか、これKついては全く決め手がない。前記したようにとの建造物は、松材を主体として一部にひの木材、けやき材、椎木材が使われている。これら建築部材C量白多少から考える左らば、現在の社殿の造営時には松材であり、ひ白木材、椎木材などは後。補修部分と考えられる。しかし墨書の方からみるならば、逆に少数部材が、本体む松材より以前に使用されていた部材ともみられ、松材で建替えた時に、その古い部材の一部を再利用したと考えられる。後者の様κ考えるならば、棟札記載。天正十八年一云々。通り、天正期に建築された社殿の部材白一部が、それ以後、種々白状況から推定して、江戸時代初期の元和期二六一五t一六一一一二)、もしくは寛永期ご六二四t一六四三)噴の一再建に使用されたと考えられる。ち左みに天正十八年(一五九O)ーーから宝暦六年-25一(一七五六)ま