ブックタイトルふるさと潮来 第四輯

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概要

ふるさと潮来 第四輯

明治二十年代における潮来町医家路伝関野修作現時点khFける、潮来町在住の医師数は十一名、治二十年代のそれは七名、人口数Kないて、がそらく三倍近く左っているであろうと思われる事を考えれば当時の潮来町の人々は、誠K文化。恩恵を多・く受けた事が思い知らされる。とともに、何故その様に多くの医師が存在したかを考える一事実として、多くの文人、俳人が潮来に来遊し、そむ景勝と文化の存在K交流を多くした事K目をむけ、最近の潮来町の発展の在り方κ、一町民として深く考えさせられるものがあります。向、現在の行方郡医師会員数は三十一名でありますが、明治二十年代には二十七名なります。ζ白中Kは、江戸寛永二年、現在の麻生町藤井kbいて、産婦人科医を開業し、現在迄二十七代つYく医家として、根本積善堂がある事を附記します。又ζの書は、前潮来町長、沢田博先生が持ってbられたもむで、医家業界紙の、メデカルニュース社の主幹、大平君に寄贈された事を知hy、大平君より借り受け、行方郡のもりだけうつしとりましたもむの一部であります。井村宗卓君零伝(行方郡延方村)明君ハ行方郡延方村ノ人老壮墾錬タリ幼ヨリ書ア噌ミ潮来宮本水雲先生ニ師事シ特長クテ医ニ志シ業ア下総匝瑳郡長谷村熱田玄庵先生ニ受ク更ニ西遊シ大阪、原佐一郎京都、舟曳紋吉ノ爾先生ニ洋法ア学ピ郷ニ帰リ開業ス明治維新ニ及ンデ下総銚港ニ転ズ当時嗣子恭庵君、東京大学医学部ニアリ巳ニシテ業フ卒ヒ帰リテ後ヲ嗣グ是ニ於テ君老シテ郷ニ帰リ書ア楽ミ以テ閑処一一齢年ア送ラントスルモノノ如シ曾テ詩アリ日ク臨帖倦来困眼昏。閑携節杖出柴門。晩璃帰去秋粛索。遠寺鐘黄葉村鳴呼君天資温厚篤実ニシテ書名遠近ニ噴々タリ然レトモ能ニ誇ラズ利ア争ハズ人称シテ山中ノ君子ト云フ蓋シ以へナキニ非ルナリ今弦君春秋七十四-36ー沢田宗伯君墨伝(行方郡延方村) 君ハ行方郡延方村字古高郷ノ人其先ハ大平内善守ヨリ出ヅ今ニ旧祉アリ大平ト名ク蓋シ古高郷ノ開租タリト云フ曾租父草野太平君医ア業トナシ夙ニ仁術ア以テ現ハル祖父太吉君武術ニ長ズ門生数百人アリ其名四隣ニ聞ユ先考沢田貞蔵君ハ則テ其次子ニシテ農桑ヲ営ム学該博ニシテ亦武術ニ長ズ君ハ則テ其次子ニシテ嘉永二年十月フ以テ生ル幼ヨリ医学ニ志シ万延元年九月全