ブックタイトルふるさと潮来 第四輯
- ページ
- 53/126
このページは ふるさと潮来 第四輯 の電子ブックに掲載されている53ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ふるさと潮来 第四輯 の電子ブックに掲載されている53ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ふるさと潮来 第四輯
昔日の面影をのとしている。ってみれば、当地方む歴史のではないだろうか。ζの寺の寺歴などもさぐ一端を知る資料となるむ文十院から五百米程行くと大賀の坂でるる。その下b口から左折して台畑へ行く。教えられた塙台貝塚の所在地である。七十アール程の畑地である。あちこち捜したが貝は出土してい左い。私の聞き違いであったのだろうかと考え込む。あきらめてそのまま引き返したが、後で石津氏κ聴いたととろ、の崖にあるとのとと、残念なり、畑の西側後日を期すことKし?にその後も数回、ある時は町教育委員会白石橋氏を案内して、貝塚探訪に出かけた。酒詰仲男博士白本K、縄文早期の貝塚がつくられた頃は標高十米の辺まで海水が侵入していたと書いてある。私も十米の等高椋をもって潮来町の地図を色分けして、乙れまで研べた貝塚白位置を記入してみた。末尾の地図がそれである。見ていただけばわかる通り、現在の谷津田は入江として陸地深〈侵入してb夕、その周辺に貝塚が分布している。貝は海白物もあhy、しじみもある。谷津田が海であったζとを証明している。縄文時代の潮来は陸地と海が複雑K出入bし、所謂リアス式。海岸であった。丸木舟漁拐にはもってこいの土地であったととがわかる。私の数回の探索行だけでも今迄知られなかった貝塚を数ク所見つけた。まだ知られ念い貝塚は数多くあると思う。それは今後C研究κまつわけでるる。-45一