ブックタイトルふるさと潮来 第四輯
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ふるさと潮来 第四輯
町村合併前の郷土植田敏雄一、はじめK観光水郷固定公園。中心K位置する郷土潮来町は、地として、また鹿島臨海工業地帯のベッドタウンとして、急激な発展と変ぼうを続けている。そしてζの発展、変ぼうは反面郷土C過去の姿を消しつつある。そのため、最近「ふるさと潮来」の読者の聞から「町村合併前の郷土C姿が知りたい」との声が寄せられている。そこで本輯κ、合併前の様子を紹介するととにした。しかし、とれらの希望に応ずるためKは、多くり資料とそむための十分な時聞が必要とされよう。従ってことでの責は、旧町村の概要の抄録だけにとどめたν、。一一、旧町村の沿革川旧潮来町古くから交通の要所として知られ、和銅三年(七一O)には駅家が置かれた。もと伊多久とか減ふとか書かれたもむを、(一五九O)K板久と改め天正一八年更に元禄十一年に潮来としたと伝えられる。大洲は江戸初期より漸時開拓され、板久村大洲新田と称していたが、天保十三年二八五二)潮来村より独立して一村となった。潮来は中世、常陸大嫁氏の一族である島崎氏の支配を受け、島崎氏威亡後は佐竹氏に属し、更に近世を通して、水戸徳川氏の所領であった。廃藩時には水戸県、明治五年に新治県に移り、同八年に茨城県に統一された。明治二二年、町村町施行にあたD、潮来村と大洲村を合併して潮来町となった。当時の潮来村は戸数一000余戸、人口も四二OO余人で、独立の資力も十分であった。しかし大洲村は独立む資力もなく、もと朝来より分村した村で、二六九八)-51-また明治五年以来、の行政区域内にあったため、合併して一町を成立させた。町名は潮来村が人家も多く、その名も広〈知られていたので、両村は同一その名をとb潮来町と称した。ω旧津知村潮来と同様、中世を通し島崎氏の支配を受け、佐竹氏、近世に水戸藩領となった。明治K至b、県、新治県、茨城県と移り、明治一一一年一月、成に際して辻村、築地村を合わぜて、を置いた。同一七年更に辻、築地、し、築地村K戸長役場を置いたが、更に水戸郡区編辻村に戸長役場水原の三村が連合明治二二年の町村