ブックタイトルふるさと潮来 第四輯
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ふるさと潮来 第四輯
κ大生家の一族、大生弾正定寺を配る、古墳がある円墳の上に杷られた小記は、庶民の信仰も厚く、境内の桜並木とともに、町指定の文化財である。向大生の部落には、常陸風土地に記載されて居る玉清井と云ふ湧泉が、臥竜の様左椎の巨木の根本より、氏子奉献の鳥居の建てられた神の池へ、清浄なる湧泉が流れ出て居る。向近傍には、音を立てて流れ出た鳴井戸、叉滝の様に流れ出る滝の井戸、其他K思井戸等名高い井戸があったが、ム「は地下水の低下で、跡方を止める程度子まで子iぁ舞;る塚か。次K子子舞塚のととを記述すると、塚は、潮来町大字大生にあり、位のところにある。農村であるが、発掘された子子舞大生神社の西南六百米この大生部落は、現在は穏やか左往古は一家族が居住し、古代文化の発祥地であった事は、大生神社を中心に百数十基の古墳が散在し、附近の貝塚よりは、縄文弥生時代白土器、古墳時代の土師器、須恵器、埴輪等上古の遺物が発見され、一瞥して当時の隆盛さが想像される、初でこの多くの古墳の中で、形のよく整った前方後円の、片耳式の首長級の奥都城である子子舞塚を、昭和二十七年に大生原村が、国学院大学教授大場磐雄博士指導の下に、地方の各種団体の協力を得て、学川lht数と同二十九年七月迄K前後四回K一臼一hJ発掘調査を行ひ、した日数は八十二日、奉仕の人員は三百七十二人、費用は、大生原村より二十五万円、文部省より五万円、計参十万円を投じた大事業であった。又大場博士発表C説明によると、位置は大生神社の南々西六百米位のとζろK位し、建設は六世紀後半と推定され、底辺の長さは七十一米五、横巾は六米、高さは六米五O、墳型は、造り出し付片耳式前方後円墳、周浬は幅三米、深さ七十五センチ、礁床は造出し部の中央と、其南と二簡所にあb、周浬は極めて小型で、南側には築かれて居左かったので空浬であったと思われる。傑床は造出の中央二ク所にあhy、一つは五米五O、巾一米四O、諜石は一つ並べに敷かれ、叉の一つはその南四米離れて、縦二米七O、横一米九Oで板岩石の板石が敷かれて居た。王体部は造出しの端氏近い前方部よりに、東北より西南K王軸を置き、深さは表土より一米、穣床の上面より八十センチ、上部よりに組合せた石棺で作られ、石材は筑波山麓で産出された絹雲母岩を用ひ、黄白色の粘土で防水の設備が施されて居た。遺骸、遺物の出土状況、王体部、石棺内より、二体分と思しき人骨とそれに伴ふ到葬品が発見された。第一の人骨は、熟年のもの、第二の人骨は小児のものではないかと推定された。副葬品、これに要-79ー第の人骨の頭部頭部の附近より