ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

であるが、玄有もまた立派な稽醤館二代目舘主として恥しからぬ実力者であり、品格の高い有徳者であったことは公文より「積善之家必有余慶」のお墨付を貰っている点からも窺われる事実である。さらに逆上って玄琢は原南陽、小宮山楓軒(郷宰富)らの協力を得て稽醤舘(乙れも水一戸文公の命名)を創立し、烈す〈なひと危のみζ とMおあなむち@公は稽醤舘を訪ねて見学しお墨付「少毘古那命、大穴牟遅之命」(このニ柱の神は医薬衛生を司る神で大国主の命と力を合せ協力される薬師菩薩名神である)の真筆の軸を贈られて医学教育の心の拠点として共々に信仰された。(町宝として小川町に現存する)玄琢は雅号を松江と呼ぴ先祖道悦)自準松江と号す)の余徳を慕って俳話の道に努めた人で墓碑の側面にまで自筆辞世の句が刻んである。「閑古鳥こころとむれば風が吹く」自準亭松江。とある。また天聖寺山門の自然石に刻まれた玄琢の句に「つつがなく実をもつけしの一重かな」(松江)嘉永元年仲夏門人等建之。梅室書。と刻み、笹薮の中の石は「くたびれたさきへ廻るや閑古鳥」と閑古鳥の声が日頃聞かれた生活環境も浮ぶと共に、郷党有志の聞に俳詣的ロマンの教育が自然に春風の如く育っていたに違いなく、他の郷民個人の墓碑にさえ俳句が刻まれて立っている。例えば「難有や八十年まちてかへり花」木公「見送るや笠にかすみのかかるまで」木公「月と日の聞にすめり富士の山」木公木公は現小川町横町の高安家の先祖である。さらに松江のつき合いは小林一茶にもあって、知足坊一瓢、桜井梅宝と云った俳友たちが集まった。一茶は文化七年(一八O二頃度々常総地方を歩いているが、文化十四年五月二十二日には松江の自準亭に一泊している。当時二余白才、玄琢は臼才である。本間家には芭蕉翁の遺品も数々あって朝食の味噌汁も翁椀で接待された。「したはしゃれUかししのぶの翁椀L一一茶松尾芭蕉(桃青) の翁椀の逸話は私にもまた奇縁が生じた。それは随斉詣話(夏目成美著、当時夏目は中央俳壇の総師であった)に略図があり(目下私はこれを原にして輪島塗本場で復製中)、文化壬申(九年、一八一二) 、日向国真彦(神職)と云う人、その住む所の岡に翁大明神(猿田彦大明神を祭る)という嗣に蕉翁を合せ祭り度いとて松江に懇願し、五器中の汁椀一ケを贈ったのが縁で桃青神社の神体となったというのである。「無格者、翁神社、祭神松尾芭蕉、奉祭建立俳人真彦」昨年宮崎県医師会長内田醇博士(本学三期)を会長として日本医史学会第乃回総会を宮崎県医師会館で三月二十五、六日開催の節、締切り十日前に発見した上記の記司tQJ正博士(本学六期)が仁泉会支部会に出席されたのを機会民同道して日向市を訪ね、実に述をもとに日向市開業の佐藤佐藤医院(先々代は西南役当時負傷した薩摩軍兵の手当てを