ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

した診察室が現存し、西郷、片桐らの大将達も佐藤博士の祖父に手篤い手当を受けた因縁もわかった)の裏の岡(権現域) 日向市史民は松江を土地の名前と誤解して認識されていることも知る乙とが出来たのである。の八合自に翁神社は実在しており、松江とはこの際は玄琢の俳号であるが、初代道悦も松江と号し、芭蕉と親交が深かった。真彦は翁椀の縁起を日向に伝えたが今は翁椀は残っておらず空のビlル瓶が淋しく花立として供えであった。伺れ翁椀の復製を完成した暁には、その一個を頒って日向市民献呈し、神体を復元したいと念じている。南陽を医術の師として医を励んだ名医で、本間家墓地の一角民有名な芭蕉筆の三句連吟の句碑が立ち、裏面の碑文は南陽の撰文である。優れた漢文であるが、大意を約すれば「世に誹譜歌があり、詩体は絶句に近いもので芭蕉翁より一つの道となり、世に尊信され、蕉翁の筆跡でも得ると則ち之を宝とするが、門人の本間玄琢の家にはその真跡を多く蔵している、子孫がよくこれを保存しないと散逸して取り玄琢は原返しがつかなくなる」と云う意味で「合浦之珠」とは水郷潮危ま来の美しい珠、即ち乙の三吟連句の乙とを指している。三吟句碑は潮来町の長勝寺にもあるが、それは昭和六年潮来の句友達が天聖寺の碑を写し取って新しく建立したものを云う。正に南陽の書いた通りに世は移り、時は経ったが、俳人のメツカの一つでもある。そして日向市の桃青神社もその一つの分身にも当る。嗣は小さいが、東面して眼下に神武東征出航の美々津海岸を見下して、丁度潮来の自準亭の方角に正面するのもまた偶然であるとしても嬉しい。中略玄琢の養父は道意(己十郎、敬美、墨斉と号す)で延享年間(一七四四i一七四七)に父業を継いで潮来より小川村民移住した人である。その親道仙は奥州森山の人行田四郎兵衛で本間道悦(初代)の門弟として入門し、道因(二代目で京師の人、友松五郎兵衛と云い同じく道悦門下生で道固と称し道悦の養子になった)即ち、こ乙に一応初代として挙げる道悦は本稿の源泉終着とするが、幼名を弥三郎、道悦、伯順松aTすみら江と号した人で資道が本名である。父の資勝(猪之助)は戸田候に仕え濃州大垣に封ぜられ、寛永十四年(丁丑、一六三七)天草之役に戸田候の命を受けて遠征、時比凶才で勇戦し軍功を挙げたが敵兵の為左股に槍ぴつζ 傷を受けて破となり、軍の凱旋に従って途中有馬温泉に滞在して病を治し、志を立てて武士を廃して医たらんことを望み、名を道悦と改め医術の自修自学、尾張の某地に居て戸田候の寵遇を受けつつ蛍雪の功を積み、後江戸に出て青物衝に開業し、名を伯順と改めて医道を精研奥義を究めたので宮医の小笠原道順はその術をよくする乙とら』認め、民間の信頼も昂まり、門下生も多く集まり、盛業となった。下野の鷲宮両官大-98-