ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
の放胆一赴と感ずるものである。禅もまた自覚の場である。貞享四年八月十四日(一六八七)芭蕉は曽良と宗波をつれて鹿島の旅に出ている。やはり月見のためである。水郷の月見の素晴しさを仏頂和尚に聞いていたからであろう。丁度八月十五日は昼から雨が激しく月見をあきらめ根本寺を尋ねたのである。江戸からの一行を迎えた仏頂和尚の温かい思いやりで深更にはどうやら月が出て来たのである。仏頂和尚は「折り折りに変らぬ空の雲間より千々のながめは月のまにまに」と歌っている。翌日「帰路自準に泊す」と鹿島紀行の文にある通り親友の本間道悦(松江)宅に十五日間余り逗留して紀行文を書きあげつつ、道悦に医学の知識を学んだと云われ、その近くの仙台河岸、津軽河岸に響きを伝える奥の細道の情景にも、一年後に敢行した長旅の奥の細道への思いを馳せたことであろう。(潮来から江戸へは水路一日の行程、陸を歩かずとも奥の細道はここから船便もあった筈であるが、当時舟行の窮屈で単調なロマンと洋上の危険に較べれば陸路の旅の方が人情と風土の香りは比較にはならなかった乙とでもあろう。)自準亭に逗留した芭蕉一行は道悦(松江)や近所の句友と共に句会を催し、特に三句連吟の句が有名であり、芭蕉の直筆ともなって残され後日天聖寺の句碑建立(原南陽の撰文)となって残っている。(潮来長勝寺の句碑は天聖寺の模写として更に後年(昭和六年)建てられたものである)そして芭蕉は自準に招かれた立場で墨筆を揮い「日暮漢宵伝蝋燭、軽焔散入五候家」と云う韓苅(八世紀中頃、唐の詩人)の寒食の詩の一部からとった者を本紅玄に遺している。今回本間うた女史の古橿の中から発見したものであるが、女史のお蔭で現存しており、「此特一篇巴蕉竜桃青翁真跡は居士かしま旅行の悶本間左右が祖父自準のもとにやどりせし折探筆ありて右ひめ持侍りしを明和八卯仲冬籍如拝受しけるを故ありて慎にし置侍りしがこたび表装なしてながく家に伝え侍るいささかも真跡うたがふ事あるべからずとしかいう、享年二年壬皮初冬上院慎誌花押」とある墨書紙一枚と共に巻き込まれていたものである。享和二年(一八O二)から算えると一一五俊道-100-は蕉翁鹿島紀行の貞享四年(一六八七)年自に当る。寒食禁火は中国で立春から一O五日目の自には火食を止めて、一日冷食として火思を知るための行事らしく、謂はば慎しみ深い日の清遊接待の感触らしい。乙こに芭蕉の下の転結句で原典は「青煙散入五候家」とあるを「軽畑散入五候家」と書いているが、筆者比は原典の自に泌みる感じのある青煙よあかりも上旬の蝋燭の光で軽るく畑るい部屋の方がよりよく調和する感じに取れる。何れにせよ芭蕉の詩境は格調高く、品格ある家に親しく一家をあげて歓待され、夕方訪問する清楚な気分が春先の花の中に東風になびく新緑の柳と共に、謹み深