ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
く味合われるのである。また同時に古植の中から発見された臼絹布地肩額に自準亭と墨書し本間救先生の為にと書き添えた李春苑氏は多分韓国から留学していた医学研修生の一人であろうかと推察される。縦約三0センチメートル、横約五0センチメートルの白絹布で見ただけで師に対する感謝の念が乙められている態のもので本間うた女史はためらいもなく筆者に寄贈されたが、筆者は写真にしたコピーを採った後直ちに小川町教育委員会に寄贈して公的な保存を希望した。また写真の中に見られる人物スケッチは本間玄調の筆致で芭蕉と道悦の句吟の様子を面白く描いており、「物いわぬ草木を友や初時雨」蕉翁謹句と賛してある。筆者の訪ねた自準亭跡の初夏は物云わぬ草木の芽立ちのみであったが考証される石田得牛老人(鈍才)と松田老人(制才)共に俳人で故人の心を伝うる感じを漂よわせていた。石田老夫人(剖才)の接待されるお茶を服み乍ら暫し往時の懐旧民話がはずんで道悦は芭蕉に句境を尋ね、芭蕉は道悦に江戸以来の胃腸病を問い、長旅の身の医術手当は独り自身のためのみならず、出遭う他人の病気をも救い、旅のたしなみに備えたものと思われ、道悦に起請文を書いて医術の伝授を受けたものを考えられる。両者の交友が俳譜と医術とに互に溶け合って友情を深めて行ったものであろう。凡そ医は仁術であり、生活の常識として立ち、自然にさからわず、薬剤を草根木皮に求める本草綱目は句道季題の感覚を深めるにも役立ったに違いない。セキに効く実をもってケシの可燐な一房の花弁を玄琢が季題にした様に、当薬(センブリ)や牛肩(ゲンノショウコ、風露草)などが腹の薬、下痢止めであり、大黄(和ダイオウ、唐ダイオウ)が通利下剤として常用される草根木皮で芭蕉の薬簡には入っていただろうし、朝顔の種子は玄午子で潟下剤であり、リンドウは竜胆で苦味胃腸薬であり、ダツラ(チョウセンアサガオ)や貰若根(ロート)などの鎮座薬位は自分の持病薬としても道悦から訓えられ携帯して奥の細道にも出かけたに違いないのである。ク〈わのみそうじんかりんワノミを植(桑子)、桑植酒(クワサケ)、花梨酒(花摘、棋櫨)、杏仁(アンズ)の味や効用も常識であったろう。当時は医者の地位が高からず、武士以下で世民に報を乞うたり、術や薬を売ったりする錨灸漢方医なども多かったし、一般には鵠業として理屈屋の職人であったため芭蕉が道悦に起誓文を書いて医師免許を授けられたとしても表面に医者と云う程に俗人ではなかったと考えられる。また芭蕉は江一円に住む間るうきい猶子(甥)の桃印と共に十年以上も同居して、その虜療(肺結核症)の世話をした記録がある。肺結核患者であるからセキをし、慢性で時には内々で曙血の世話までしたかも知れないし、道悦の助けも乞うた乙とも考えられるし、服薬の点でも百蕉が医者の免許をもった方が円滑で購入法も医者の立場の便宜があったのではないだろうか。伺れにしても肺携は世間が嫌った筈で、その世話をせね2inu