ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
ばならない立場からも医師の心得は常識としても高かったと考えられる。腹痛だから胆石症と直結する従来の考え方が素人臭いのであって、その持病が慢性の腸結核である可能性の万が私には病理に叶う様に考えられる。中略兎に角芭蕉の歩いた奥の細道から北陸、信濃川千曲川水系文化圏も野兎病(兎毒)分布地域に一致するものであり、芭蕉が「月日は百代の過客にして、行かう年もまた旅人也、舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老をむかうるものはすみか日々旅にして旅を栖とす。十口人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか片雲の風にさそわれて漂泊の思いやまず・:ちとすうぜう・:」と旅立をして奥の細道を歩き平和泉の辺では「堆兎麗莞の往きかう道、そうともわかず終に踏みたがへて:::」、また「蚤一風馬の尿する枕もと」の句を残して恐らく深い山道にウサギのダニも脚紳には附着したに違いない。翌年(元禄三むすかり年、一九六O)ではあるが、残した句に「病雁の夜さむに落て旅ね哉」があるが、頭初にも書いたように渡り鳥の病原菌運搬も今日的な眼から見ると大自然の中の芸術でもある。「風流の初やおくの田植うた」と彼は途上須賀川に等窮を尋ねて四1五日宿ったこともあって阿武隈山系は今日野兎病の濃厚な蔓蓮地区であることは確認されており、現に福島市の信夫山近辺でも白ネル布の旗振り法をやると多種多様のダニ類が採取されるのも私共には確証済みである。羽黒三山のお守り「芸虫」の藁縄引縄奉納は事実悪虫リケッチャの検出に出張した山形県下の実験で東大伝研グループの先輩達が実証を挙げているが、これを羽黒三山のお守りにすると云うことは「基がなし」の万でなくてはならない様に思うが「悪虫」になっていて面白い。しかし羽黒山神社の軒下に奉納された縄たぐりのマクロをミクロに置換えて望見すると所謂芸虫(赤虫)の外観に男需する点もないではないもののこれは少し巨大過ぎるこじつけである。それよりも「芸が無し」は「ツツガムシ」とも読めるから面白い。巴蕉は信濃川の辺りも歩いているが、佐渡島にも野兎病が分布し、計らずも村上源氏に血を引く藤原系統の本間姓を名乗る家系は故本間雅晴大将を含め二000戸近くもある。また酒田市の本間家も村上天皇の血統を引く旧大家である系図の細部は異っているが、私の奇縁はここにもある。水戸の本間家は大昔、桓武帝の大博士藤原継綱の弟大連資継に出て、南都本間村に住したので本間氏と云うもので多分にその頃征夷大将軍を東北に派遣された時の文官グループとして随ったものの中に本間三郎佐渡守護職となったと記録されているの-102-で考証は不確実でもあったに相違はないが、その後の本間資基まで記録は不詳不明であるが、資基、資正、資膳、資道と続き、この資道が弥三郎、道悦、松江の名号をもっ本人で芭蕉と親交の人で俳句では桃青に松江が師事し、医道では道悦が芭蕉に秘伝を伝えたに違いない。私は野兎病研究会や講習