ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
仏頂和尚と俳聖松尾芭蕉そして潮来の本間白準亭宇野沢竹H水郷を知らざる者俳人に非らずH こんな言葉が生れて俳句のメッカとして水郷が知られる起因には二つある。一つは江戸中期より庶民の一泊観光ルートとして成田山を詣で、そして利根川を船で下って水郷三社詣り(即ち香取、鹿島、息栖の三社)への一泊二日の観光コlスが当時の江戸庶民に好評を拍したのである。しかしその蔭には潮来の六軒の遊廓が大きな遊びの目的地で成田山ゃ、香取、鹿島の神々達も潮来の遊女詣りへのついで詣りの口実でしかなかった。今でも聞く言葉に「成田山はやきもちの神さまだから、夫婦でのお詣りを避けて亭主一人でお詣りすればご利益がある」確かに妻を残して男衆だけで女遊びゃ守すればと利益は百パーセントであろう:・・:・::::乙んな悪知恵が江戸時代の女房達に信じ込まれ、女房を属しては男達の本望を達していたのである。そして帰ってより香取、鹿島さまの有難い護符だと女房達に神棚へ奉じて柏手を打って拝ませたと言う乙とである。現に残存する史実の中に如何に潮来の遊廓が当時は隆盛を童極めていたか、その頃の水戸藩の財政を支えていた運上金や冥加金台帳に依っても潮来の六軒の女郎屋の上納金が上位にあった事が誌るされている。さて今一つの原因は史実に基く裏付けとして、仏頂和尚と松尾芭蕉、そして潮来の本間自準との繋りが水郷を世に広めた原因である。貞享四年(一六八七年)八月十五日、松尾芭蕉はかねてから水郷の月見の素晴らしさを思いたち、仏頂和尚と、そして朋友である潮来の本間自準亭を尋ねて長逗留をしている。本間家で書き誌るされた芭蕉の「鹿島紀行」が世に出てより水郷が広く世人民知られるようになって、江戸よりの文人墨客の往来が激しくなったのも江戸中期以後である。しかも四季風光と俳材に富む水郷は江戸から格好な距離にあって一泊の観光コlスとして好適であった。特に文化、文政の江戸末期の俳話隆盛期には有名無名の俳人が多く水郷を訪れているととから、乙の言葉が生れたものであろう;・:きて後世俳聖と唱われた松尾芭蕉は伊賀上野(滋賀県)の藤堂家に仕え、松尾宗房と称する武士であった。主君良忠の俳詣の友として小姓頭を勤めていたが、主君の早逝に伴い、生涯を主君の寺の僧侶として一生を墓前に仕えることを決意したが、練める者もあって京の国学者、北村季吟に学び、季吟の勧めで江戸へ勉学を決意し、季吟の紹介状をもって江戸深川に居た仏頂和尚に禅の教えを受けるべく江戸に上ってきnu ’i