ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
.2 - 。bi仏頂面と言う言葉を後世に残した仏頂和尚は、鹿島郡札村(今の大洋村札)の平山家民生れ、幼少より悪童として手におえぬ腕白小僧であった。ある秋、近くの寺の柿を盗んだ乙とから木に博られ、明教寺の和尚氏助けられたのが因縁で僧侶となり、各地を転々と修業の末、鹿島にある根本寺廿一代目の住職となった。その前、根本寺は、鹿島神宮側より邪魔あつかいにされ移転せよとの命令を受けていた。しかし仏頂和尚は正式に住職を継ぐや敢然として当時の権力者である乙の鹿島神宮に抗し、幕府の寺社奉行へ、ζ の寺領問題を訴願したのである。やがて仏頂は深川の臨川庵に居を移して、六年間に亘る裁判を続行した。そして遂に権力者の鹿島神宮側を敗訴に追い込み根本寺側が勝訴した。仏頂の名は一躍、名僧、傑僧として世人を驚かせたのである。そして仏頂和尚は各地の名刺より迎えられたが、故郷に帰って弟子に根本寺現住職を譲り、ふるさと阿玉の大儀庵を修復し、陰世の身となった。医家潮来の本間自準は本間道悦と称し、近江国戸田家に仕えたが、九州天草の乱において左脚を受傷して破行の身となり、尾張にて医術を学び、のち江戸日本橋青物町で医家を開たまたま芭蕉と知り合い、仏頂和尚、松尾芭蕉、そして本間自準の三者は江戸時代より深交の仲となった。俳号を松江と名乗り芭蕉句集にも見える。仏頂和尚の勝訴による鹿島への帰省に影響され、本間自準も水郷潮来の里へ移住した。自準亭と称して医業と俳諸には多くの弟子を養成し、芭蕉一行の月見の帰路K自準亭に長逗留して「鹿島の記」が乙〉で書かれた。貞亨四年の中秋、鹿島の月を見ようと芭蕉は弟子の曽良と宗波を連れて深川を船で下り行徳より陸路市川を通り鎌ケ谷の里民出た、その名文は「鹿島紀行」に譲るとして、芭蕉一行は利根河畔の木下の河岸で夜船に乗って鹿島に向ふのであ7Q。業中、’i唱iその頃江戸通いの客船を茶船と言って船中でお茶、弁当などを接待する船が許されていた。お酒、その夜はどんよりと曇り、八月十四日の月も無月となって明日の天気が気ががりの利根の夜船行であった。下総の滑川あたりを通る乙ろより東の空が明け始め、やがて津の宮河岸にかかる乙ろより気にしていた雨がぽつぽつと落ちて来た。そして小見川前より浪逆浦にかかる乙ろ、雨は本降りとなって、やがて鹿島大船津の河岸に着いた時には土砂降りとなってしまった。H 昼より雨しきりに降りて、月を見るべきにあらず、麓に根本寺の前の和尚(仏頂の乙と)今は世をのがれて乙の所に