ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
- ページ
- 19/114
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている19ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている19ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ふるさと潮来 第五輯
屋敷所有者二九人が記録されている。その後、大洲新田は正保二年(一六四五)に本郷の板久村(潮来)庄屋の支配から分離し、初めて大洲に独自の庄屋役が置かれ、年貢割付も板久村から独立する。以後、大洲新田は後述の割付状にみられるように村高を漸増させていく。しかし「大洲新田」から「大洲村」として完全に独立するのは水戸藩の経界改正の一環として村の分離統合が行なわれた天保一四年(一八四三)である。そして明治二二年の町村合併時民、大洲村は再び潮来村と合併して潮来町を形成する。三、年貢割付状からみた大洲新田大洲区有文書のうち、最もまとまっているのが年貢割付状(年貢免状)で、正保二年(一六四五)以降の二二六通が残っている。中には損傷がひどく開封、判読の困難なものもあったが、乙れはすべて同地の研究会員村田正氏の努力で数表化していたYいた。今後の研究資料の意味で同氏作成の数表を表ω「年貢割作一覧表」としてそのまh掲示し、ζれについて以下に若干考察してみたい。(表(1)年貢割付一覧表却頁参照)ω村高の増加「割付一覧表」から村高の増加についてみよう。大洲に庄尾が置かれ、板久村と別割付になった正保二年の村高は二O一石余である。乙の村高はその後約五0年間殆んど変らないが宝永二年(一七O五)から多少の増減を辿り、事保一三年(一七二八)には二七O石台に達する。その後漸増を続け、宝暦一三年(一七六三)にはコ二O石台を越え、明和、安永期と順調にふえ、三五O石台になる。しかし兇作災害の頻発した天明期以降、享和期まで増加はなく、文化期に入って再び増加し、文化四年(一八O七)には正保期の二倍の四一O石台を越し、その後も文政、天保初期まで微増する、そして水一戸藩全領検地後の天保一四年(一八四三)には一挙に二五O 石余の激増となっている。水戸藩の天保検地は従来の六尺竿から六尺五寸竿に改めたため、全領四一万八千余石から三一万七千余石と約二四%も減少した(『水戸市史中三』)が、大洲村では逆に村高の約五八%も増加した特異な地域であった。乙の天保期の急激な村高増加は、新開未検地の組入れや従来の保護策としての緩かな検地が、統一規準によって実施された結果と思われる。天保期以後の大洲村高は明治に至るまでほY固定する。ω年貢率の変遷司’唱iまず田方の年貢率(免)についてみると、正保二年(一六四五)から享保八年(一七一三一)托至る約八0年間は、万治三年(一六六O)の一ツ五分(一割五分)を最低、承応二年(一六五三)と明暦二年(一六五六)のニツ二分を最高とするが、乙の聞の平均免は一ツ六分五厘となり、水戸領内他地域の新田と比較し低率である。この低率の原因は続出した水