ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
災害にもか』わらず村高の増加や戸数の増加をもたらしたものと考えられる。階層構成と近隣村よりの越石次に大洲新田の土地所有についてみよう。寛永一八年「大洲新田御検地水帳」、宝暦三年「大洲新田御検地説合田方案内帳」、文政二年「大洲新田田万御検地順帳」より作成したのが表(3)である。従って宝暦と文政については畑方分は含まれないが、水田主体の大洲新固における階層構成の既要は把握できよう。(表(3)大洲新田の階層構成・泊頁参照)まず乙の表から一反歩以下の無高同様の極小規模を含めて五反歩以下の零細農が極めて多い乙と。即ち、寛永期では検地帳記載者の七八%にあたる四二人が田畑を合わせて五反未満、宝暦期は田高だけではあるが八九%にあたる七四人、文政期でも八O%にあたる六八人が乙れに該当する。したがって本来多数を占めるべき五反歩l一町歩の中農層の割合が極めて少なく、寛永では二八%、宝暦で七%、文政で二二%に過ぎない。もっともこれら検地帳に記載されている者で、大洲新回以外に居住するいわゆる「越石百姓」が含まれている乙とは、合計人数が大洲新回全戸数を上まわる数である乙とからも明かである。ではどれ程の人数が、どれ程の越石+そしていたろ乙れについて示したものが表(4)である。乙の「越〉O’円ノ品川石帳」は年欠であるが、明治五年までの記事があるので、その直後民作成されたものと思われる。表(4)からみて他村からの越石者は隣接の延方村三人、辻村一八人、潮来村一五人で合計三六人、その越石高は合わせて一六八石余である。乙れは明治初期の大洲村高六七六石の約二五%に相当し、越石者一人当りの平均は四・七石となる。乙の大洲全戸数の半数民相当する多数の越石者の存在が大洲新田の村高増加にもか〉わらず、土地所有の零細化の一因であったとも考えられる。四、おわりにQd町内に保存されている近世文書のうち大洲区有文書の概要と、年貢割付状を中心に二三の点を紹介した。今後、乙の割付状の多角的な分析、研究をはじめ、その他の保存文書の活用による郷土史研究の盛行を期待し、併せて町内における史料の所在調査、並びにその保存について多くの方々の協力と援助をお願いしたい。筆者ふるさと潮来編集委員県歴史館史料室長