ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
土浦1玉造、土浦l潮来の四航路をもっていた霞ヶ浦名物の定期船も、利用者の最も多かった四十五年の五万九千人を境に、マイカーの普及や鹿島線の開通など陸上交通の発展に伴って利用者が減少し、一億円を上回る累積赤字をかかえた水郷汽船会社(直木力社長)は、最後に残っていた土浦l潮来聞を五十年十月一日より休航とし、五十一年十月一日より廃止した。(五十年十月一日「いはらき」新聞) 風雲急を告げる昭和十六年の五月十八日(臼)に起った水郷汽船(通称ボンボン蒸気)の顛覆事故は、当時現場に急行できなかった私の幼な心(満五才)に、八十を過ぎた老婆が水泳を知っていたため二人の孫とともに助かったという話などとともに、とびりついて離れなかった。もうかなり前の話になるが、麻生高校に赴任直後の教え子で凸版印刷(株)に就職した一卒業生が、水郷めぐりの際、上司が「僕の彼女が乙乙で死んだんだよ。」と話していたという、事実ともツヨークともつかぬ話を思い出す。今地蔵河岸を訪ずれてみると事故現場は延方干拓(「ふるさと潮来第二輯」立野三司、延方干拓について参照)となり、見渡すかぎり広々とした水田地帯に変貌しているが、事故当時は前川の三叉沖と称されていた難所であった乙とが想像される。手漕ぎの助け舟を出しても一般に数人しか乗れず、タ閣の中に帽子や頭が点々と見え、そのうちに力尽きてそれも見えなくなっていった(地蔵河岸の秋永氏談)普門院の住職渡辺啓雅氏は当時護国寺に修行中であったが、たまたま帰省中の事故で、四十九人の遺体を地蔵様の周囲に並べて検視が行なわれたこと、以前は遭難碑が境内にあったが現在は見当らない乙と、先年土浦在住の遺族から回忌法要の依頼を受けた乙となどをお伺いした。平和で人命尊重の今日的感覚でみると、事故原因の究明、刑事責任の追求や遺族への保障等の問題は一体どうなったのかと考えざるを得ないが、日中戦争が果しなく拡大し、泥沼にのめっていき、ついに太平洋戦争に突入した阻和十六年当時の遭難者は全く「死に損」であったのだろうか。霞ヶ浦の湖上を走る定期船も消えた今日、朝日新聞の縮刷版(国立国会図書館)によって往事を忍び、犠牲者の冥福を祈ります。四十四名溺死か水郷汽船・利根川で顛覆す〔茨城県麻生電話〕十八日午後五時頃水郷汽船水郷丸三十号(船長小沢正雄(四O)機関士鈴木義次(一九)が香取・鹿島神宮参拝の客東京府下武蔵野町中島飛行機製作所職工永田忠外二十四名、東京板橋志村町日坂印刷所職工十四名、東京府向島区寺島町四丁目隣組十七名その他計七十六名を乗せ鹿島郡豊津村大船津を発し潮来K向け行方郡延方村洲崎地蔵河岸地先利根川を航行中顛覆麻生・鹿島両警察署では付近町村警防団員を動員して救助-32-作業民努め、うち三十名を救助、付近の農家に収容手当を加えたが七名(男二名、女五名)は死亡、行方不明三十九名、