ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
天狗諸生の乱H窪谷徳川幕府末期の元治甲子の乱(一八六四)所謂天狗治生の戦については、茨城県に明治・大正に生れた人達ならば、土地の古老から、断片的な話は聞いていると思う。私は茨城県北部の生れであるが、村民が二派に分れ相争って、私の家は諸生派であった乙とを親から聞いた記憶がある。郷土潮来は天狗党の中でも、林五郎三郎の率いる勇猛なる潮来館勢の出身地である。戦死或は牢中で斬せられ、明治の御世になって、靖国神社民合記された勇士が、潮来町だけで七十三名の多きに達した。この様な大きな犠牲者の出た天狗諸生の戦とはどの様な乙とであったのか、唯単に水戸藩の内乱であると片付けでしまうのはあまりにも酷である。当時の日本の状勢は、まさに閏難であった。徳川三百年の泰平の夢は破られて、四囲の梅には外国船が跳梁していた。十六世紀のキリスト教禁止以来の撞売を断行し、神州日本を外夷より護らんとし、全国有為の十しが決然として立上った。尊王撞夷の雄叫びは津々浦々を震憾させた。乙の様な時代背景のもとに、潮来郷校で教育を受けた青年血気の士が困難に趣いた心情は実に悲壮であり純粋であった。章潮来の近辺では、鹿島町、大舟津、延万の州崎、潮来の陣一町、麻也の行用原等で激戦が展開されている。この天狗諸生の乱を、潮来の人達にも正しく認識して貰いたいと念願して筆をとった次第である。現ト仕調育研究中のため、た英軍の名簿を載せ、第五輯には、靖国神社に合配され更に乙の戦の研究の権威者である、那「甲子動乱の経過」を転珂湊市の関山理正先生の若占より、載させていた三く乙とにした。潮来勢が、湊の戦に勇奮した様相は一読すればわかると思う。次号第六輯には湊戦に破れて北方に転戦、野州路を通って、上州下仁田、信州和田峠の戦から越前敦賀で加賀藩に降服す-- 35-