ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
た。そして七曲り坂へ向ったと乙ろ坂上の文武館と御殿の裏山から小銃の乱射をうけましたので、御船蔵通りをかけぬけ御殿町から寅賓閣の正門へ乱入しました。天妃山下から渡河した一隊は、辰の日比上陸し、一町白から本通りを直進して和田・殿山の敵を攻撃しました。との戦闘で湊の市街地千二百齢戸が焼けました。那珂湊の市川党伊藤辰之介らは衆寡敵せず、館山に後退し、再び乙乙児拠って戦いましたが遂に中根を経て水戸城に引揚げました。頼徳の部隊が那珂凄を占領したので八月十七日筑波勢藤田・飯田隊はまた小川郷校巴戻りました。武田耕雲斉の部隊は館山に障し湊を守る乙とになり、同二十日頼徳は再び水戸に入城して使命を果そうと城東細谷の神勢館に前進しました。頼徳は使者を水戸城に送って平和裡民事を処理しようとしたが、同二十二日城兵は戦闘を以てとれに答えました。そして両軍の戦闘は連日、水戸の城東地区民展開されました。神勢館附近の戦闘が開始された八月二十二日、幕藩連合の追討軍は、筑波山を包囲しましたが、すでに筑波勢の隻影だに発見できませんでした。乙れよりさき頼徳は助川(日立市)の山野辺王水正に使者を出し求援を求めました。また同二十日大発勢の大津彦之允の一隊百五十齢人は、那珂湊より北郡に向いました。山野辺隊百齢人は菅谷(那珂町)に至りそれより水戸城に入って員芳院を守護しようとしましたが、城東方面の戦闘、まさにたけなわであったためやむなく助川への帰途につきました。すると石神村で大津隊に会いましたので共に石名坂の上に布陣した市川党戸祭隊の兵を撃退して助川域に帰りました。幕藩追討軍の作戦は、先ず敵、即ち尊撞派の枝葉を断ち、おもむろに敵の本営那珂凄に迫るにあったようです。助川城は九月初め追討軍民包囲されてしまいました。山野辺主水正は城を出て二本松藩兵に降伏したので、村(水府村)大津隊は城を脱出して中染・島村(常陸太田市)附近で激戦の末に全滅しました九月九日のととです。主水正は幕軍と戦う意志は全くありませんでした。乙れよりさき、筑波の空営を占領した追討軍は数隊に分れ次の作戦に移りました。その一部は府中・小川方面に滞陣中の筑波勢に迫ってきました。前記したように分裂した前者の鹿島組は鉾田方面に移動し、後者の藤田・飯田隊や別動隊の田中悪蔵らも郷校潮来勢と共に磯浜・那同湊に移動しました。筑波勢は南北に分裂しました。頼徳の部隊は八月二十二日から連日水一戸城を攻撃しましたが、目的を達する乙とが出来ませんでした。すると、八月二十三日、幕軍の一部の兵が笠間より水戸城に入りましたので、これを知った頼徳の部隊は、八月二十八日から末日に及んで那珂凄に帰りました。頼徳及び大発勢は水戸城に拠る市川党とは、交戦しましたが.幕軍とは山野辺と同様に全く戦闘の意志はありませんでした。九月初旬に於て前記したように、那珂凄附近には、神勢館から引揚げた頼徳及び大発勢の大部隊、府中-41-