ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
- ページ
- 46/114
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている46ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている46ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ふるさと潮来 第五輯
頼徳が那珂川を越えて松川へ去った九月二十五日、幕藩追討軍の那珂湊包囲線は完成しました。その総兵力は二高余人といわれています。乙の日六ツ時半(今の午前七時)頃、中根村(勝田市)より水戸佐幕党の首将市川三左衛門は諸生党五百余の兵とともに平磯口へ向いました。壬生藩兵(鳥居丹波守)四百余人、鯉淵勢その他農兵千齢人、北条新太郎・深津称左衛門は幕府歩兵隊をひきい御持小筒組方の阿部駿河守・日野根藤之介らと弐千齢人、部田野より六軒家をへて平磯へ向いました。乙の日の追討軍の攻撃地点は平磯村(那珂湊市) でありました。殿山の潮来勢は稲荷山(和尚塚)に布陣し、平磯の筑波勢はひばり塚K展開しました。その兵力は壱千齢人でした。山形半六隊六十齢人は平磯より磯崎に向いました。記録によりますと、乙の日は北風が強く、そのため追討軍は有利でしたが守る湊勢は全く不利でした。しかし湊勢は勇敢に戦いましたが遂に平磯は追討軍に攻め乙まれ放火されたため大半は焼けてしまいました。筑波勢はやむなく平磯の寺山(聴法寺)の陣地をすてて湊の牛久保氏後退しました。九月下旬になりますと天狗党の拠点は那珂凄だけとなってしまいました。県北・県南の各地に転戦していた諸隊も逐次、追討軍に撃破され戦死または捕えられて全滅それで追討軍は天狗党の最後の拠点那珂湊に全力ぞ集中してきました。していたのです。十月比入ってからの湊勢の陣形をみますと殿山旭ケ聞に潮来勢、牛久保に筑波勢、館山に武田勢、橿原神宮に水門館(みなとかん)勢がその陣地を守備していました。勿論その先兵は、ひばり塚・和尚塚に出ていました。大発勢の総督榊原新左衛門は、寅賓閣を(御殿山)本陣とし、文武館(さきの水門館のζと)反射炉におりましたuζ の手は神勢館長の福地政次郎が砲兵を指揮して柳沢からの攻撃に備えていました。また追討軍が祝町や小泉から那珂川を渡河して攻撃する乙ともあるとして、東西南北の四郡奉行支配下の兵が交替で辰の口、小川などの川筋の警戒に当りました追討軍の包囲陣形は、中根村民本陣を置き、田沼玄蕃頭が水戸弘道館より前進してきました。中根・馬渡・柳沢を拠点として湊の西北部を受持ち、那珂川の南岸小泉・川文・祝町と乙れまた幕軍及び諸藩兵が布陣して各街道の出入口を警戒していました。また小泉の芝原には砲兵を配置しました。そして穫の沖即ち海上には幕府の軍艦が遊よくして、湊勢の海からの脱出を警戒していました。初め追討軍は、柳沢より峰の山を落し反射炉に攻め乙む作戦を実施しました。すると館山K陣した武田勢より側面から攻撃され、また、乙の街道は那珂川と館山下の水田にはさまれ大軍の展開が出来ませんし、吾妻台(反射炉のあるE、今の湊一高)の砲撃を恐れ、作戦を変更したといわれています。ひばり塚周辺はかつて、烈公-44-が「ひばり狩り」と称して蕃兵の機動演習を乙乙ろみた史蹟