ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

であり、軍事演習には最適の平野でした市川ら城兵が乙ζ に着目した乙とは当然の処置・作戦であり、また湊の守備は乙乙が一番の弱点でした。九月二十五日の戦闘はその第一次戦で、十月二十三日まで連日のように砲兵戦・白兵戦が両軍の聞に断続しました。追討軍の一翼として出動した奥州福島藩兵三百余人も追討軍の中におりました。十月五日頼徳を切腹せしめた幕軍はいよいよ元治元年十月十日(陽暦十一月九日)錦秋の平原に大軍を一大総攻撃を実施するととになりました。そして湊の市街地に突入し天狗勢を一挙民全滅せしむべく、乙の日早朝、諸隊は宿営地を発して西北の諸道より凄に向って前進しました。展開せしめ、前夜筑波勢藤田小四郎・飯田軍蔵らはひそかに一手の精鋭をひきいて磯崎明神より前浜に前進し、その主力はひばり塚に障していました。また和田台場の屈強なる潮来勢は田丸の本隊を支援して稲荷山に布陣していました。追討の諸軍は部田野より館山へ、前浜・原を経てひばり塚へ、また十三奉行ぞへて六軒家より稲荷山へ、前浜より一本松へ四千余りの大軍を展開して前進・攻撃して来ました。筑波勢・潮来勢は闘志満々とれを迎撃しました。しかし志気はともかく、攻兵の武器は量質ともに優秀でありました。攻兵の大挙来襲の合図の太鼓が橿原明神の山に鳴ったので、ζ 乙比於て総督榊原新左衛門は意を決しました。即ち出軍の令を発したので、文武館に陣していた中備の隊長富田三保之介は新田道(泉町)よりひばり塚へ前進し筑波勢の戦線に加入しました。水府流の剣術師南役浅田富之允・郡奉行村田理介・同役の新井源八郎らも手兵とともに稲荷山に急行し潮来勢を支援しました。橿原明神に陣していた湊文武館勢も稲荷山に前進して六軒家に布陣していた市川三左衛門及び福島藩兵と白兵・激戦となりました。湊文武館勢の狙撃した一銃弾が市川三左衛門の肩先に命中しましたので、市川は下馬し市川勢は三町ばかり後退し前浜山(原附近)に陣しました。震勢は乙れを逃さじと銃を乱発して追撃しました。市川勢と並進していた福島藩兵は、市川勢が退走したので、奮戦を継続しましたが、地理不案内の故もあって六軒家の畑中にとりの乙され、初復してしまいました。湊勢は乙れにも襲いかかり-45-ましたので福島藩兵は新堀氏後退しつつ戦いましたが多数の戦死傷者を出しました。史料によると森三四郎(桜田事変の森五六郎の兄)が敵と槍を合せ、乙れぞ突いたので、その敵兵は地に伏してしまいました。三四郎は乗り掛って首を取らんとしました。そ乙へ綿引宇八郎が駈けよってきました。すると敵はまだ十五・六歳くらいの少年でした。市川勢ではないと思いましたので姓名を能く聞きましたと乙ろ福島藩留守居役間淵清介の枠栄吉と名乗りましたので、皆乙れを感賞して助けました。そして他の捕虜四名と共に翌日福島藩の陣所へ送附したといふ乙とです。