ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
そして斬られました。両軍の十月十日の大血戦の頃には、凄の陣営では頼徳が切腹となったζ とを知らなかったのです。乙れ以後と思われますが、榊原ちが降伏すれば命を助けるという両軍の会談がひそかに那珂川の舟の中で行なわれていたのです。そんな乙とは、筑波勢や武田勢・山国兵部ほどは知りませんでした。このような乙とから榊原ら大発勢の大多数千数百人は十月二十三日幕府民降伏したのです。降伏に反対の筑波勢・武田勢・潮来勢は追討軍の包囲線を突破して北に走りました。また大発勢の中でも三木左太夫・浅田富之允・白井忠左衛門などはともに一団となって湊を脱出して京都に向う乙とになるのです。目代松平頼徳が八月十日、従兵とともに水戸城南の吉田台町に到着してから、十月二十三日までの期問、那珂湊を中心として、天狗・書生両党の激戦は七十数日に及びました。そしてこの日を以て那珂湊の戦闘は終りました。(那珂湊文化財史料より抜奉)右記が筑波挙兵より那珂湊大戦に至る戦闘作戦の経過の大略である。第六輯では波山分離隊の敗走と田中悪蔵隊の解散全滅に至る経過を史料によってその足跡を追う乙とにする。筆者那珂湊市郷土史研究家中国訪問記日中友好親善の船にて昭和五十四年五月立野司日本文化の源でもある一衣帯水の隣国中園児は近々中に是非訪問してみたいと渇望していたと乙ろ、同色人種であり、折しも新聞広告にて「日中友好親善の船」のある乙宇佐知り、早速申込む。夢が叶って現実となり、本町からは山沢伊エ門氏と私、本県からは計五名参加昭和五十四年五月二十七日午前十一時五十五分羽田発空路博多に行き、ホテルニュ!大谷に集合す。参加者は北海道を除く、全都府県民及び、各職種各階層と、多彩な顔ぶれ総勢四O三名にて盛大なる結図式が-47-行なわれた。団長には、日・中・米友好国民委員会代表委員の大谷竹山氏が就任された。二十一の班が編成され、以後は班行動に移る乙とになる。そして結成された乙のマンモス訪中団は、早速乙のホテル、ニュl大谷に宿泊することになる。昨年十月オープンしたばかりのホテルは実に立派なもの、結団式に参列し、壮行の辞を述べて呉れた福岡市長の話によると、度々国際的な会合に使用されている由。往時の五口一国の