ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

需主徳島之起原(遺稿) 額藤重賀八達嶺より万里の長城を望む江戸時代の初期浪逆楠・鰐川・前川の中程に広い三角州が出来あがっており、芦、真菰などが繁茂し、次第に農耕民適する土地となった。乙の土地の領有をめぐって、鹿島郡下幡木領主新圧隠岐守と行方郡延方村との聞に紛争が絶えなかった。寛永十一年十月新庄隠岐守は乙の問題を幕府の評定所へ公訴した。寛永十一年十月ヨリ寛文十一年迄四十年程相争った。そして寛文十二年壬子十二月六日幕府の裁決がくだった。その内容は延方村からの申し分は正当で下幡木村の言ひ分は、非義であるから延万村支配とすべしと、言ふ意味のものであった。そ乙で水戸領主は早速乙の三角州へ農民を取り立てる計画をす、め、延方村民十人と潮来村に十人と入植の割当をしたが、潮来村は希望少なく、結局延方村十八戸、潮来村二戸の二十戸で植民をした。入植完成は延宝三年(西歴二ハ七でそ乙が即ち現在の徳島区である。-58-五年) 前記二十戸の入植者がのちに本家と呼ばれる方々であるその名前並びに現在の主人は次の通り(敬称略) 立野博史弥惣衛門久左衛門門折笠利次篠塚久司手リ衛