ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

水戸公と徳島元禄四年仲冬二十五日、水戸光園公徳島民御成りになり、長勝寺の末寺(則寮寺)の瑞雲和尚と、いろりを囲んで詩を吟じ、遊ばれた乙の時の詩を御供照体の書いたのを額賀藤重家に所蔵されている。宝永四年、水戸綱条公徳島御成り時長勝寺末寺で禅雲寺と呼んでいたのを則一課寺と改め蒲地百間四方を下された。(則霜寺は明治十年延万小学校徳島分教場となる。)此の土地は明治三十九年分教場が徳島単独小学校に昇格を機会に、其の維持費の意を含め延万村民寄附せられた。現在の徳島小学校敷地共同墓地外は農地開放によ旬、現在の所有者の名義となった。天保五年、水戸斉昭公南領巡視の折、潮来宮本茶村宅に御泊りになり、徳島則寮寺に立ち寄られた。(額賀藤重家記録)水戸光閤公元禄十三年(西歴一、七O一年)十二月六日西山に於いて七十三才で莞せられた。徳島民於いては義公様の命日比は、昭和年代に於いて一年欠かさず区長議員、社惣代当番主下番主列席して念仏講の方々によって法要が行なわれている。又巌島神社境内には、義公殿とて義烈両公を御祭している宮がある。徳川時代、江戸城の御本丸様御丸様に対して、食膳御用として額賀藤重家に於いて、鯉(四百匁1五百匁)四百匹舟に利根川、江戸川、開田川経由して幕府に御納めしたとの事、当時舟のへさき乙御本仇様食膳御用と黒地に臼く染め抜いた』西御丸たて六O糎、横三O糎の轍を立てて江戸、徳島聞を往来したとの事。其の威勢は大したものであったとの事。漁法は於架巻、轍は今も保存されている。(額賀藤童家)小峯忠五郎宅に於ては、鳥もちなわとて鴨類は風に向って泳ぐ習性を利用して風上より鳥もちなわを流すと多くの鴨を取って、水一戸家に対して御納めしたと伝えられて居ります。鑑札などあった筈ですが類焼で焼いてしまったとの事です。徳島民伝承されている無形文化財(町指定) 弥勅踊り此の踊りミロ今ボサツの乱れる世を鎮めるとて、夫や息子が出障の時の励ましの舞で、母なる人妻なる人が踊った舞である。水神社当家に於て戦前は出征の門出、徴兵検査に於いて無事合格、今は月の一日か十五日で領主の安泰と部落の平和と諸々の安全祈願とな大鼓を二人で叩いて七人唱え残全部の者が朗唱-60-った。歌詞する。コンニチノオサカモリオボスナ様ノゴホウラクミナバ4ズレソロイ申シテ花ノ遊ビヲサシアゲル道芝ヲ踏ミワケテマイリ申スオボスナヨトウネンノアシキコトオパケノゲ給へヨアレミョヤイソノハマデオボスナ様オナガタイツリアゲテアイコソヤオボスナ様ノカケネヲトミイソロウ中大鼓二人朗唱三人、残り全部立って円陣で踊る。