ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

ページ
73/114

このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている73ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第五輯

一部が削られているζ とを除けば、本墳は良好に保存されてE耳、(稲村)大生東姫塚古墳〆,、、頁参照)いるといえる。本墳は、大生東古墳群中最大期模を有する稲荷塚古墳の南西約一OOmの雑木林の中に構築されている。直径約四五m、高さ約四mの二段築成の円墳で台地のほぼ中央部に位置し、墳頂部は盗掘によって著しく変形している。構築当初の墳丘は現在より、もう少し高かったものと思われる。二段目の墳丘はζ の墳頂部を除いて殆んど変形していない。一段目の墳丘は北側が墳圧の立ち上がりが明確であるのに対し、南側は封土の流出が多く、墳Eの立ちあがりは明確にし得ない。周陸は幅一Om程度で一周している。西側から北側にかけて周庭帯状の施設が確認されるが、東側は開墾の為に不明である。更に地形が北から南へ僅かに傾斜して行くために南側でも確認する乙とは出来ない。外部施設としての葺石や埴輪の存在等は不明である。現状は、墳頂の盗開による著しい変形を除いては、ほぼ良好に保存されている。特に墳圧の東側を除いて手入が良く清掃されており、特異な墳形を一見して理解する乙とが出来る。最後に本墳の構築された時期を問題視しなければならないか、立地及び平面プラン等から古墳時代後期に編年する乙とが出来ると思う。(稲村)ヨ王、結びに換えて私が大生古墳群を最初に訪ねたのは、間和三七年八月であるから、もう一五年以上も前である。麻生の実家からは交通の便がなく歩いて大生神社に着いた時は、正午を過ぎていた様に思う。その時は大生西1号墳もまだ存在しており、稲荷塚古墳の卜レンチ痕が今も記憶に残っている。それから伺度訪ねたであろうか。最近では阻和四九年一一月に大生神社の解体修理が済んだ本殿を故大場磐雄先生のお伴をして訪ね、夜中に大森信英氏を混えて亙女舞神事を見学したととが想い出されるし、昭和五三年四月に奈良の友人を案内して歩いている。特に乙の折教育委員会の石橋氏に大場先生が残された唱ーゥ, 古墳を一つでも多く測量しなければと約束したのであったが、小生の持ち前の怠慢からその機会を作れずに月日を重ねていた。幸い本年度からその責を果すととが出来る様になった。その測量結果については、稲村、槍崎両氏が紹介している通りである。そこで乙れら三基を含めて大生古墳群について二、一ニ気の付いた乙とを述べて私の責任を果したいと思う。大生古墳群の歴史的背景については大場先生の卓見があり、今更述べる乙とはないが、乙の古墳群の特徴は埋葬施設が箱式石棺であるという点である。このことについては、既に大生古墳群の報告書中にその概略を紹介させていただいたのであるが、その分布は全国的に非常に片寄りを見せている。すなわち熊本、徳島、愛媛、千葉、茨城等に集中している。千葉、茨城では古